資治通鑑と通鑑綱目とは? わかりやすく解説

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資治通鑑と通鑑綱目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:04 UTC 版)

三国志演義の成立史」の記事における「資治通鑑と通鑑綱目」の解説

庶民レベルでの説三分隆盛並行して知識人の間でも宋代には三国時代正統論について興味深い動き見られた。当時三国のどの国が正統かを論ず正閏論が盛んとなる。碩学として知られ北宋司馬光編年体史書資治通鑑』(以下、『通鑑』)において魏正統論の立場叙述した欧陽脩(『明正統論』)・蘇東坡(『正統弁論』)らも同様である。しかし南宋時代朱熹朱子)は『資治通鑑綱目』(以下、『綱目』)において司馬光激しく批判三国時代記述に魏ではなく蜀の年号用いるなど、蜀を正統王朝見なし、特に諸葛亮を「義によって国家形成目指し唯一の人物」と礼賛した。それ以前に蜀正統論を強烈に主張していたのは東晋習鑿歯であるが、漢人知識層にとって東晋南宋は、ともに異民族華北奪われ江南後退余儀なくされた屈辱時代であり、それゆえ類似した状況にあった蜀への共感高まったとの指摘がある。朱子理論基盤とする朱子学宋学)は明代至り国家公認学問となった。すなわち『演義』が完成した時代には、朱子歴史観(=蜀漢正統論)は公式なものとなっていたのである。 『通鑑』と『綱目』は歴史観のみならず、『演義』の文章にも大きな影響与えている。『通鑑』は正史をはじめとした様々な史書ら抜き書きし、編年体体裁にまとめた書物であり、『綱目』はさらにそれをダイジェスト化した書である。そのため、歴史の流れ把握する上で重要人物記載が各伝に散らばっている正史『後漢書』『三国志』『晋書』)を直に読むより、はるかに参照しやすくなっている。『演義』の作者校訂者は、直接正史参照する以外にも、『通鑑』や『綱目』を参考にして書いたとみられる箇所散見される。また朱熹同時代学者『近思録』共著者でもある呂祖謙記した正史ダイジェストである『十七史詳節』も参照に便利であった思われ、『演義刊本中には董卓死亡した箇所論賛などに「已上、詳節に見ゆ」と『十七史詳節』からの引用明記してあるものもある。

※この「資治通鑑と通鑑綱目」の解説は、「三国志演義の成立史」の解説の一部です。
「資治通鑑と通鑑綱目」を含む「三国志演義の成立史」の記事については、「三国志演義の成立史」の概要を参照ください。

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