貴族院議員・議長として
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明治23年(1890年)に帰国。同年に貴族院が発足し、公爵だったために無選挙でその議員となる。議長の伊藤博文伯爵の代わりに仮議長を務め、会期の大部分を彼が議長職を代行していた。院内会派として同志会を結成。翌24年(1891年)に三曜会と改称、同年に月曜会も設立して同志を募った。月曜会はしばらくして自然消滅に向かったが、篤麿は同じく五摂家出身の二条基弘らと共に三曜会に属し、谷干城らが結成した懇話会と共同歩調を取り貴族院で政治活動を行った。後に三曜会が衰退すると朝日倶楽部と合併、同じく活動が低調になった懇話会とも合併し、新たに結成した土曜会に移り活動を続け、次第に政界で重要な地位を占めるようになった。貴族院で色んな活動を行ったが、政党政治家にはならず党利党略的な活動はしなかった。白柳秀湖によれば武士階級がともすれば露骨な利己主義なのに対し公家階級出身の彼は国家的見地に立って進退するという。明治天皇は内命をもって侍従長を介し篤麿に意見があれば何事も随意に奏聞するよう命じていた。これは異例のことだったが、皇室と近衛家の特別な関係及び篤麿の卓越した見識を評価されたことによるものだった。 明治24年(1891年)の大津事件でロシア皇太子ニコライが襲撃された際には貴族院を代表して皇太子を見舞った後、閣僚問責運動を起こしている。 明治25年(1892年)に貴族院議長に就任し、病気退任する明治36年(1903年)まで務めている。明治28年(1895年)には学習院院長となり、華族の子弟の教育に力を注いだ。彼は政治活動が活発だったので多額の資金を要したが、収入は貴族院議長(公爵は貴族院議員としては無給)と学習院院長としての給料しかなかったので常に借金をしていた。 第1次松方内閣の樺山資紀海軍大臣の「蛮勇演説」を廻って紛糾し空転した衆議院の解散総選挙では、品川弥二郎内務大臣が中心となって行った選挙干渉で民党側に死者25名・負傷者388名を出す惨事になり、篤麿はこれについて政府の姿勢を追及した。さらに政党のことも猟官主義に走ればそれは単なる徒党にすぎないと批判した。松方正義内閣、大隈重信内閣、山縣有朋内閣、伊藤博文内閣などから入閣の誘いがあったが断っている。
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