調査・修復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 07:26 UTC 版)
1867年の地震により主祠堂の円い屋蓋(屋根)は崩壊したが、ファン・キンスベルゲン(英語版)が、それ以前のセウ寺院の遺構を撮影している。その後、1885年にアイゼルマン(オランダ語版)は、以前コルネリウスによって作成された寺院複合体の図面にいくつかの修正を加えて、寺院の状態に関する記録を作成した。そこには仏頭がいくつか失していたと記されるが、それらの仏頭はいずれも1978年までにすべて残らず遺跡より略奪されている。 1908年、ファン・エルプ(オランダ語版)により主祠堂が清掃され修復が開始され、その後、ドゥ・ハーン (De Haan) が、ファン・キンスベルゲンの写真を用いてプルワラ祠堂の復元作業を行なった。次いで1923年より、セウ寺院はクロム(インドネシア語版)やストゥッテルハイム(インドネシア語版)らの考古学者による研究の対象となり、1950年にはドゥ・カスパリス (Johannes Gijsbertus de Casparis) もこの寺院について研究している。そしていずれの考古学者も、寺院はおおよそ9世紀のうちに建立されたものであるとしていた。しかし、1960年に発見されたマンジュスリグラ碑文は、西暦792年のものであったことから、寺院はより早い8世紀末に建立されたと考えられる。1981年にかけて、ジャック・デュマルセ (Jacques Dumarçay) は寺院の綿密な調査を実施した。 20世紀初頭以降、寺院は徐々にかつ慎重に修復されているが、完全には復元されていない。何百基もの祠堂の遺構があり、その多くの石材は失われている。1927-1928年に主祠堂およびその他の祠堂の一部が修復され、1980年代になり大規模な修復工事が行なわれた。主祠堂の修復および東側の2基の祠堂は1993年に完成し、1993年2月20日にスハルト大統領により落成した。しかし、寺院は2006年のジャワ島中部地震において多大な損傷を被った。構造的被害は甚大であり、中央祠堂は最悪の被害を受けた。大きな破片が地面に散乱し、石材には亀裂が見つかった。中央祠堂が崩れないよう四隅に金属フレームの骨組みが立てられ、主祠堂を支えるために取り付けられた。数週間後に遺跡は訪問者のために再開されたが、2006年より主祠堂は安全上の理由で閉鎖されたままであった。その後、金属フレームは取り外され、現在、訪問者は主祠堂を参観し入場可能である。また、年中行事であるウェーサーカ祭(尼: Waisak)がセウ寺院において開催される。
※この「調査・修復」の解説は、「セウ寺院」の解説の一部です。
「調査・修復」を含む「セウ寺院」の記事については、「セウ寺院」の概要を参照ください。
- 調査修復のページへのリンク