要塞構築
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1886年(明治19年)10月8日工兵第2方面(本署:大阪)工役長に就任、同月下山筆八工兵中尉・横地重直工兵大尉と新潟県直江津で鉄道伝習を行い、1887年(明治20年)1月東京湾要塞観音崎・猿島各砲台を視察した後、4月19日長崎県下県郡雞知村字樽ヶ浜に設置された対馬砲台建築派出所を拠点に、 堀俊一工兵監護・安倍知三郎工兵曹長・太田尾貞一工兵一等軍曹等を指揮しながら、同月温江・芋崎・大平砲台、7月面天奈弾薬本庫、9月大石浦砲台を起工、年末には腸チフスの流行等に見舞われながら、1888年(明治21年)竣工した。 1888年(明治21年)11月27日陸軍省臨時砲台建築部に召集され、黒田久孝砲兵大佐・矢吹秀一工兵中佐・上原勇作工兵大尉・有坂成章砲兵少佐・西田明則技師・吉本亀三郎技師・来島省三技手・下山筆八工兵中尉等との業務を通じて研鑽を積んだ。1889年(明治22年)11月22日東京の工兵第1方面本署に転じた。1891年(明治24年)6月6日第6師団工兵第6大隊(旧:熊本鎮台工兵第3大隊)中隊長となり、熊本に戻った。 1893年(明治26年)5月22日工兵第2方面署に戻り、12月16日淡路島由良支署に配属され、支署長上利芳三工兵少佐の下で由良要塞赤松山・伊張山堡塁、婦野川橋・生石山諸砲台や友ヶ島内の交通路を構築した。1894年(明治27年)10月横地重直工兵大尉等と共に朝鮮半島に派遣され、ドコービル・レールによる軽便鉄道を敷設した。 1896年(明治29年)3月の鳴門海峡防禦計画書改正を受け、4月1日淡路島福良に置かれた第2方面鳴門支署の初代支署長に就任し、鳴門要塞の着工準備を行った。1896年(明治29年)11月20日舞鶴支署(1897年(明治30年)9月15日工兵方面廃止により陸軍省築城部舞鶴支部)長に転じ、本署御用掛を兼ね、舞鶴要塞葦谷・浦入・金岬・槙山砲台、下安久火薬本庫、白杉地区との交通路を起工し、葦谷・槙山砲台は竣工を見た。 1899年(明治32年)8月12日築城部横須賀支部長となり、1903年(明治36年)5月1日東京湾要塞司令部に兼務し、台風に悩まされながら第二海堡の上部構造基礎工事と第三海堡の人工島造成に当たった。
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