要塞東北面突破とロシア軍の降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 01:00 UTC 版)
「旅順攻囲戦」の記事における「要塞東北面突破とロシア軍の降伏」の解説
12月10日、第11師団による東鶏冠山北堡塁への攻撃を開始。15日に勲章授与のため兵舎を訪れていたコンドラチェンコ少将が二八センチ榴弾砲の直撃を受け戦死した。 18日には日本軍工兵が胸壁に取り付けた2トンの爆薬による爆破で胸壁が崩壊、ロシア軍は僅か150名の守備兵しかいなかったが果敢に反撃し第11師団は戦死151名、負傷699名もの損害を受け激戦の末夜半に占領した。ロシア側は150名中92名が戦死するという玉砕に近い抵抗だった。乃木司令部は以降も胸壁や塹壕を完全に破壊してから突撃に移る方針を続けた。 28日には第9師団による二竜山堡塁への攻撃が始まる。胸壁を3トン弱の爆薬で爆破し300名の守備兵の半数は生き埋めとなるが残兵が激しく抵抗、水兵の増援もあり双方射撃戦になる。しかし歩兵第36連隊が後方に回り込み、それを見たロシア軍守備隊の撤退により、29日3時に遂に占領された。第9師団は戦死237名、負傷953名の損害を被り、ロシア軍も300名以上の死者を出した。 31日、第一師団による松樹山堡塁への攻撃が始まりロシア軍守備兵208名のうち坑道爆破で半数が死亡、占拠した二竜山保塁からの援護射撃もあり後方を遮断することに成功、11時に降伏した。第一師団は戦死18名、負傷169名の損害を被りロシア軍も生存者は103名だった。 1月1日未明より日本軍は重要拠点である虎頭山や望台への攻撃を開始し、午後になって望台を占領した。 ロシア軍はそれまで203高地攻防などで予備兵力が枯渇し、コンドラチェンコ少将が戦死した中でも抗戦意志を捨てていなかった。しかし東北面の主要保塁(望台)が落ちたことで旅順要塞司令官ステッセリは遂に抗戦を断念し、1月1日16時半に日本軍へ降伏を申し入れた。 5日に旅順要塞司令官ステッセリと乃木は旅順近郊の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称え合い、ステッセリは乃木の2人の息子の戦死を悼んだ。また、乃木は降伏したロシア将兵への帯剣を許した。この様子は後に文部省唱歌「水師営の会見」として広く歌われた。こうして旅順攻囲戦は終了した。日本軍の投入兵力は延べ13万名、死傷者は約6万名に達した。
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