西板線計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 16:20 UTC 版)
第二次世界大戦前には西新井駅 - 東上本線上板橋駅間を結ぶ西板線の計画が立てられていた。1920年の東武鉄道・東上鉄道合併により、東武本線系統との接続を図る目的であった。 ほぼ現在の環七通りに沿って途中に大師前、鹿浜、神谷、板橋上宿(いずれも仮称)の各駅が計画され、1922年11月に南足立郡西新井村(西新井駅 地図) - 北豊島郡上板橋村(上板橋駅地図)間の免許申請が行われ、1924年5月に免許が下付された。 だが、申請から免許下付までの間に発生した関東大震災による既存路線の被災復旧を優先したこと、当時建設中だった荒川放水路の堤防などの護岸整備が完了しておらず架橋の設計ができないこと、荒川放水路と隅田川を跨ぐ橋梁の建設費用の問題、予定地の町関係者からの経路変更要求への対応画策などの問題が起こり、その対応に忙殺されているうちに、大正末期から昭和初期にかけて路線予定地が急速に市街地化されたため「建設費が高額となり、採算の見込みがない」との理由で、西新井 - 大師前(北緯35度46分44秒 東経139度46分53秒 / 北緯35.778861度 東経139.7815度 / 35.778861; 139.7815 (大師前駅))間開業の翌年、1932年に鹿浜 - 上板橋間の起業を廃止した。大師前 - 鹿浜間については「工事竣工期限延期願」を関係省庁に提出していたが、1937年6月に不認可とされ、免許が失効した。 この計画中止について『東武鉄道六十五年史』では「遂にその線の実現を見るに至らなかったことは、交通網の現状から考えてまことに残念なことであった」と記されている。 西板線は東上線系ではなく本線系とする計画であり、両路線群間の車両転属回送経路としても活用する計画であったが、未成となったことで、東武悲願の「本線系と東上線系路線との接続」はならなかった。この西板線が未成に終わったことから、両系統路線群を接続する自社路線がないため、東上線と本線・野田線との間で車両を輸送する場合は秩父鉄道秩父本線が使われている。 西板線の線形は、東上線の下り方(寄居方面)と伊勢崎線の上り方(浅草方面)とを直通運行する際に折り返しがないように計画された。上板橋駅の上り方に、東上線からの分岐予定地および貨物操車場予定地として買収した土地は、起業廃止後常盤台住宅地として分譲されることになり、そのアクセス駅として武蔵常盤駅(現・ときわ台駅 地図)が設置された。 全ての座標を示した地図 - OSM全座標を出力 - KML 表示
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