装甲艦「モニター」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/03 15:51 UTC 版)
「ジョン・エリクソン」の記事における「装甲艦「モニター」」の解説
南北戦争勃発直後の1861年、連合国は即座に既存の USS Merrimack の船体をベースとして鋼鉄の装甲艦の開発にとりかかった。Merrimack はバージニア州が連邦から離脱する際に、ノーフォークの海軍基地(ガスポート海軍工廠)で燃やされた艦だった。事態を重く見たアメリカ合衆国議会は1861年8月、合衆国海軍に装甲艦の建造を推奨した。エリクソンは未だにアメリカ海軍を毛嫌いしていたが、Cornelius Scranton Bushnell に説得され、装甲艦の開発に携わることになった。エリクソンはモニターの設計図を描いた。モニターは従来にない斬新なデザインの装甲艦で、様々な議論の後1862年3月6日に建造が完了した。計画発足からわずか100日ほどという異例の早さだった。 3月8日、南軍の装甲艦バージニアがバージニアの北軍側の海上封鎖部隊に襲いかかった。翌9日、現地のバージニア州ハンプトン・ローズにモニターが現れ、2隻の装甲艦が相撃ちとなり、北軍の艦隊を全滅から救った。その後モニター艦が多数建造され、合衆国側を勝利に導く原動力の一つになったとされている。現代から見れば単純な設計だが、モニターの基本設計要素は後世の設計者が様々な戦艦に流用した。 その後エリクソンは魚雷の発明に従事し、水面下の発射口から砲弾を発射する水雷艇デストロイヤーを開発した。また、ジョン・フィリップ・ホランドの初期の潜水艦の実験にも技術的支援を行った。Contributions to the Centennial Exhibition (1877, reprinted 1976) という本では、太陽熱を集めてホットエアエンジンを動作させる「サンエンジン」を解説している。これらの設計をメタンガスエンジンに転換し、エリクソンはさらに富を得た。 エリクソンの発明はいずれも大きな産業に発展しなかったが、史上最も影響を与えた機械技師の1人とされている。1889年に亡くなった後、遺体は巡洋艦ボルチモアでストックホルムまで運ばれた。エリクソンはヴェルムランド地方のFilipstadに埋葬されている。
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