行政組織、税制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 18:37 UTC 版)
「オスマン時代のブルガリア」の記事における「行政組織、税制」の解説
オスマン政府はブルガリアをヴィライェト(州)に分割して行政区画を再編し、それぞれのヴィライェトはベイレルベイの下に置かれるサンジャク・ベイやスバシによって支配されていた。ティマール制の下では、征服した土地の大部分はスルターン(オスマン皇帝)から直接、あるいはベイレルベイを通して、帝国の臣下に封土として下賜された。封土は土地から上がる収入に応じて区分され、20,000アクチェ以下のティマール、100,000アクチェ以下のゼアメト、それ以上のハッスの3つに分けられ、一般のスィパーヒー(騎士)にはティマールが与えられた。旧ブルガリア帝国の大貴族は没落したが、下級のブルガリア貴族は存続を許され、オスマン支配を受け入れた封建領主の中にはスィパーヒーに組み込まれた者もいた。ハッスはスルターンの一族や有力者の直轄領とされ、税制で優遇を受けていた。 封土の私有地化は禁止されており、土地を耕す自営農民が農業生産・税制の根幹になっていた。農民に土地の所有権は無く、割り当てられた農地を離れる事も認められていなかった。農民の耕作権は保証され、封土の所有者は農民の権利と農地の経営を保護する義務を負っていた。ティマール制が正常に機能している場合、封土に居住していた農民たちには特別税のみが課され、彼らの税負担は当時の西ヨーロッパの農奴に比べて軽かった。1680年代からの帝国の衰退に伴ってティマール制の崩壊も始まり、領主であるスィパーヒーは収入を確保するために土地の住民から厳しく税を取り立てるようになった。16世紀から17世紀にかけて財政危機に直面したオスマン帝国はベイレルベイを廃止し、代わりにヴァリと呼ばれる徴税官がブルガリアに赴任した。ブルガリア人の税負担は軽減されず、17世紀初頭に各世帯の資産平均の約3分の1だった税負担は、17世紀末には資産平均の45%超に増加する。 税の徴収の機会を除いて、オスマン帝国の役人がブルガリアの村落を直接訪れる事は滅多になかった。農村部の人間には人頭税(ジズヤ)のほかにデウシルメが課せられ、7歳から14歳までのキリスト教徒の男子がイェニチェリに徴用された。デウシルメで徴用された後に出世した人間が自分たちに便宜を図ることを期待して、デウシルメの適用をすすんで志願する村もあった。土地の中にはワクフ(宗教寄進財産)の対象とされたものもあり、モスク(イスラームの寺院)やマドラサ(イスラームの神学校)の運営などに充てられていた。時代が進むとキリスト教の教会や修道会にもワクフの所有が認められるようになった。免税が認められた村は、免税と引き換えに皇帝や役人のための作業を請け負った。作業の内容には、山道の監視、皇帝の鷹狩のための鳥の調達、村の温泉の水の都市への供給などが挙げられる。
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