近衛家平
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近衛家平像(天子摂関御影、紙本着色)
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時代 | 鎌倉時代後期 |
生誕 | 弘安5年(1282年) |
死没 | 元亨4年5月14日(1324年6月6日) |
別名 | 号:岡本関白 |
官位 | 従一位、関白、左大臣 |
主君 | 伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇 |
氏族 | 近衛家 |
父母 | 父:近衛家基、母:鷹司朝子(鷹司兼平の娘) |
兄弟 | 家平、経平、良覚、慈勝、信助、近衛兼教室 |
子 | 経忠、覚実、慈忠、女子 |
近衛 家平(このえ いえひら、旧字体:近󠄁衞 家平󠄁)は、日本の鎌倉時代後期の公卿。関白・近衛家基の長男。官位は従一位・関白、左大臣。近衛家7代当主。号に岡本関白。
経歴
正応3年(1290年)8月元服、叙爵。右近衛少将、権中納言、内大臣、右大臣、左大臣を経て、正和2年(1313年)7月に関白、藤氏長者になるが、正和5年(1315年)9月に辞任。
元亨4年(1324年)3月29日に出家し、同年5月14日[1]に薨御。享年43。
家平の日記『岡本関白記』は逸文が今日まで伝わっており、別名を『伏見院御落飾記』『伏見上皇御素懐事』といい、正和2年10月17日に伏見上皇が太上天皇の尊号と封戸を辞し、伏見殿九体堂にて出家したことを詳細に記録している。
『増鏡』「秋のみ山」にみる逸話
家平の男色嗜好
家平は中年以降、女性を近づけず、男性だけを寝所に侍らせるようになった。左兵衛督の忠朝、諸大夫の成定、そして隠岐守の頼基などが、次々と寵愛を受けている。
家平と頼基
家平が剃髪して出家した後も、頼基は常にそばに仕えた。病が重くなったときも、昼も夜も片時も離れずにいた。臨終の時、家平は頼基に身を預けて、「あはれ、もろともにいで行く道ならば嬉しかりなん(ああ、もし共に行ける道であるならば、どれほど嬉しいことだろう)」と語ったが、その言葉を終える間もなく息を引き取った。家平の子の経忠は、このような有様を目にして、深く悲しんだという。
その後まもなく、頼基も病に倒れ、「やがて参り侍る、参り侍る(すぐに参ります、すぐに参ります)」と口ずさみながら亡くなった。これは、家平があまりにも頼基を愛していたために、すぐに黄泉へと招き寄せたのだ、と人々は恐ろしく思った。
家平と頼基が相次いで世を去ったこの物語は、『栄花物語』「みはてぬゆめ」に描かれる藤原道兼と藤原相如の相次ぐ死を想わせるものである。
系譜
脚注
- ^ 5月12日説・5月15日説もある。
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