薩摩側の思惑
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武力倒幕路線を決意していた西郷・小松・大久保ら薩摩藩在京幹部がこの時期に、即時挙兵とは反対の平和路線をとる薩土盟約を結んだ理由については、様々な説が出されている。これらの諸説について家近良樹が『幕末政治と倒幕運動』の中で整理しており、 A.戦略的理由による原因 大政奉還建白を徳川慶喜が拒否することを見越して、そこに倒幕の大義名分を求めるため。 土佐の提案に賛成することで再び山内容堂を政局に引きずり出すため。 政局が武力倒幕論と平和倒幕論(大政奉還)のどちらに転んでもいいように二股をかけるため。 薩摩藩内の武力倒幕反対派への妥協のため。 B.武力倒幕派の立場上の制約 実現困難な武力倒幕論は、現実味のある公議政体論と異なる権力構想を打ち出せなかったため。 王政復古後の政権構想を持っていなかった薩摩が、来るべき政権の構想を提示した土佐提案に活路を見出したため。 この時点(慶応3年6月)ではまだ薩長の武力倒幕路線が正式な方針として確定しておらず、藩内に異論が多かったため。 と分類している。この中で家近はA-1説を最有力と見なし、その推論は概ね支持されている。後述する西郷が長州藩士御堀耕助・柏村数馬に対して行った状況説明の際に「素より其策持出候も、幕府ニ採用無之ハ必然ニ付、右を塩ニ幕ト手切之策ニ有之(大政奉還建白は必ず幕府の拒否にあうだろうから、それを大義名分として幕府と対決する策である)」と明言していることからも裏付けられる。すなわち薩摩側ははじめから大政奉還建白が拒否されることを見越して、大義名分を得るための手段ととらえており、むしろ幕府へ与える軍事的プレッシャーの一助として土佐藩の兵力に期待して連携したのである。 この意味で、大政奉還論を大前提としていた土佐藩側とは初めから同床異夢だったともいえるが、実際は後藤も建白があっさり受け入れられるとは考えておらず、建白が武力倒幕の大義名分を得るための方途となることを認識していた。また長州の木戸孝允も坂本龍馬に宛てた複数の書簡の中で、後藤・西郷・乾の役割を「西吉座元」「乾頭取」などと芝居にたとえており、土佐側当事者の一人である佐々木高行も日記の中で同様に、後藤の「建白芝居」に続いて乾・西郷の「兵力芝居」「砲撃芝居」が行われることで芝居が完結するとの表現を用いるなど、大政奉還建白が相当程度において茶番劇であることを関係者たちは自覚していたと思われる。
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