薩摩半島の石井氏とは? わかりやすく解説

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薩摩半島の石井氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 09:43 UTC 版)

大隅石井氏」の記事における「薩摩半島の石井氏」の解説

鹿児島市 義辰の嫡男義高(石井蔵人)の次弟平次郎は弓の名人で、元亀3年1572年島津と肝付の一戦である小浜合戦で、強弓を引きしぼってよく戦った23歳討死系図によると義高の子義泰について「明暦二年丙申八月十三日鹿児島にて死去行年74歳」と記載されていることから、この代より鹿児島移住したものと考えられる明治時代鹿児島市石井三兄弟三人とも医師)がいた。元亭(慶応2年生)は、薩摩藩明治2年1870年英国人ウィリアム・ウィリスWilliam Willis)を招き設立した鹿児島医学校卒で、鹿児島初の皮膚科専門医鹿児島市東千石町開業した。元亭の弟玄貞(明治3年生)も同じく鹿児島医学校卒。内科専門で、垂水鹿児島市山之口町開業した伊佐石井才援三男伊佐敷氏養子)は熊本医専出身で、鹿児島市西千石町眼科開業した南さつま市(旧・金峰町、旧・坊津町田布施郷士石井家あり。元文4年1739年)噯石井左衛門名がある南さつま市歴史交流館金峰主な展示物田布施絵図寛政4年1792年)に作成され当時村落神社・仏閣、城、門名等が細かく描かれている)があるが、同絵図右下端に絵図の製作を指揮した人物思われる郷士年寄 石井次郎太の名が見える。また、天保10年1839年9月8日金蔵院坊津一乗院末寺)覚文に郷士年寄 石井次郎右衛門署名がある。 坊泊の郷士石井家あり。大姶良地方現在の鹿屋市)より山伏として入り来たり、そのまま居付きたるものと伝えられている。西南戦争出陣した石井源助石井次郎がいる。 日置市旧・日吉町吉利郷士石井家あり。禰寝氏(後に小松氏)の移封従い大隅から移住してきたものである文禄4年1595年禰寝重張の旧・根占領小根占、大根占、佐多田代四郷)から吉利郷への移封従った士に石井舎人石井左衛門石井周兵衛の名がある西南戦争石井盛年出陣し熊本県高瀬戦死している。

※この「薩摩半島の石井氏」の解説は、「大隅石井氏」の解説の一部です。
「薩摩半島の石井氏」を含む「大隅石井氏」の記事については、「大隅石井氏」の概要を参照ください。

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