薩摩半島の石井氏
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鹿児島市 義辰の嫡男義高(石井蔵人)の次弟平次郎は弓の名人で、元亀3年(1572年)島津と肝付の一戦である小浜合戦で、強弓を引きしぼってよく戦ったが23歳で討死。系図によると義高の子義泰について「明暦二年丙申八月十三日鹿児島にて死去、行年74歳」と記載されていることから、この代より鹿児島に移住したものと考えられる。 明治時代、鹿児島市に石井三兄弟(三人とも医師)がいた。元亭(慶応2年生)は、薩摩藩が明治2年(1870年)英国人ウィリアム・ウィリス(William Willis)を招き設立した鹿児島医学校卒で、鹿児島初の皮膚科専門医。鹿児島市東千石町で開業した。元亭の弟玄貞(明治3年生)も同じく鹿児島医学校卒。内科が専門で、垂水と鹿児島市山之口町で開業した。伊佐敷蕾(石井才援三男伊佐敷氏養子)は熊本医専の出身で、鹿児島市西千石町で眼科を開業した。 南さつま市(旧・金峰町、旧・坊津町) 田布施の郷士に石井家あり。元文4年(1739年)噯石井仲左衛門の名がある。南さつま市歴史交流館金峰の主な展示物に田布施郷絵図(寛政4年(1792年)に作成され、当時の村落、神社・仏閣、城、門名等が細かく描かれている)があるが、同絵図の右下端に絵図の製作を指揮した人物と思われる郷士年寄 石井次郎太の名が見える。また、天保10年(1839年)9月8日の金蔵院(坊津一乗院の末寺)覚文に郷士年寄 石井次郎右衛門の署名がある。 坊泊の郷士に石井家あり。大姶良地方(現在の鹿屋市)より山伏として入り来たり、そのまま居付きたるものと伝えられている。西南戦争に出陣した石井源助、石井松次郎がいる。 日置市(旧・日吉町) 吉利の郷士に石井家あり。禰寝氏(後に小松氏)の移封に従い大隅から移住してきたものである。文禄4年(1595年)禰寝重張の旧・根占領(小根占、大根占、佐多、田代四郷)から吉利郷への移封に従った士に石井舎人、石井吉左衛門、石井周兵衛の名がある。西南戦争に石井盛年が出陣し、熊本県高瀬で戦死している。
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