薩摩人気質との比較
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 05:44 UTC 版)
肥後人気質を言い表したものとして、国境を接する薩摩人気質と比較したものがいくつか存在する。なお、肥後は、筑後国、豊後国、日向国とも接し、肥前国とも有明海を介して接しているため、薩摩のみが比較対象となるわけではない。 薩摩国では、大きな提灯を掲げた強力な指導者が現れた際には皆がこぞってついて一丸となるが、肥後国では各々が兜をかぶり大将気取りで一致団結することがなくばらばらのため「薩摩の大提灯(おおぢょうちん)、肥後の鍬形(くわがた)」と言われる。また、薩摩の大提灯と比較して、肥後では各々が腰に提灯をつけ単独行動をとることから、「肥後の腰提灯」とも言われる。「意地は熊本、気は薩摩」という言葉もある。岩中祥史は、「意地は熊本」の具体例として、22年間連続して献血率が全国トップだったことや、明治時代の中盤までは九州の中心都市として発展したが明治時代の後半から福岡市に中枢機能が移っていったこと(大正9年の人口統計では福岡県に2倍以上の差を付けられている)に起因する福岡への強烈なライバル意識をあげている。 駕籠を利用しての移動中、「目的地に着くまで黙っているのが薩摩の侍で、駕籠に揺られている間もどこへ行こうとしているのか確認せずにはいられないのが肥後の侍」というものがある。 「薩摩の芋つる、肥後の引き倒し」という両県人の気質を揶揄的に表現した言葉もある。薩摩では成功者を出そうとみんなで頭角を現した者を盛り立てて協力し、成功者は自分を支えてくれた者達を芋つる式に引き上げ、成功をみんなで分かち合おうとする気質を薩摩の特産物であるサツマイモに見立てたものである。肥後においては、成功しようとする人や頭角を表す人が出ようとするとみんなで寄ってたかって邪魔をはじめ、出る杭は打たれるの通り仲間内で足の引っ張り合いを演じて仕舞い、ついには引き倒してつぶしてしまう。そのため大成する者が肥後人からなかなか出ない様をさしている。中学済々黌の創立者であり明治初期の熊本県の教育者であり評論家であり政治家であった佐々友房(さっさともふさ)は肥後人を表して「度量に乏しい」「他を排斥することを喜ぶ」「他人の欠点を直言して言う」と酷評した。 毎日新聞の記者であった平川清風は、両県の県民の気質を線に喩えた。どちらも太い一本の線に見えるが、熊本県民の方はよく見ると何本もの線が複雑に絡み合って太さを形成しており、肥後人気質は複雑かつ聡明であるという。
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