薩摩下向と続く養嗣子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/09 14:00 UTC 版)
祖は桓武平氏秩父氏で、相模国渋谷荘を領し渋谷氏を名乗った一族。当主渋谷重国の長子である渋谷光重が、本貫地である渋谷荘を長男の重直に与え、次男から六男には宝治合戦の恩賞として与えられた薩摩国の領地をそれぞれに分与、三男の吉岡重保には祁答院を与えた。宝治2年(1248年)に他の兄弟ら共々薩摩国へ下向、その地名を称したのが祁答院氏の始まりとなる。なお祁答院氏と固定されるまで、吉岡・恩馬・柏原・平川などの姓を称しているが、系図上は重保を初代に数える。 重保は最初、柏原(現:鶴田町)へ館を築き柏原氏を称した。この地に館を築いた理由は、同じ渋谷一族である東郷氏が本貫地であるはずの東郷に館を築かなかったのと同様、在地郡司である大前氏(おおくまし)が一帯に大きな勢力を有していたからである。大前氏と祁答院氏は対立を深くし、この戦乱で重保の嫡男朝重が戦死している。大前氏が滅びると祁答院氏はその拠点の一つである虎居城に入り、以後ずっとここを本拠とした。また、この地を領していた大前氏の分家も祁答院氏を称していたが、没落すると時吉氏を称するようになった。 初代重保が亡くなるとその跡目は養子の重尚が継いだ。重尚は重保の長兄渋谷重直の子である。重保に嫡男の朝重以外の男子がいなかったわけではなく、次男の惟重がいたのだがなぜか惟重は中津川氏を継いでいる。また2代重尚の跡目も、重尚に実子将重がいたにも関わらず、惟重の子(一説に惟重の弟)の重松が継いでいる。その重松の跡目である4代行重も養嗣子で、武蔵国荏原郡大森の領主大森頼郷の子で、祁答院氏に養育され最初は中津川氏を継いだが、重松に男子なくその養嗣子となったものである。
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