蕩平策による王権強化とは? わかりやすく解説

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蕩平策による王権強化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:38 UTC 版)

李氏朝鮮」の記事における「蕩平策による王権強化」の解説

景宗短命亡くなり1724年に第21代王として即位した英祖熾烈な党争抑えるために、蕩平政治(朝鮮語版)を行い要職に就く者を各党派からバランス良く登用する事で政争抑えた。蕩平策は始め老論少論中心に人材登用していたが、1728年には朝廷から追放され少論南人派による麟佐(朝鮮語版)の乱が起きるとそれを逆手にとり、南人、小北にもその適用拡大し、これら4党派均等に登用することで政治バランス取ろう試みた。各党派自己の党勢の拡大のため、様々な策を弄してこれに対抗したが、英祖逆に蕩平策を強化し、同党派同士婚姻禁止、蕩平科の設置など、更に蕩平策を強化し政治安定した。 その裏各派は、世子問題など利用して主導権握ろうとの計略何度も実行していた。代表的なのが荘献世子事件である。1762年英祖が、健康上の理由荘献世子公務代理務めさせようとすると、南人少論・小北の勢力荘献世子側に付き老論勢力はこれに反発する継妃貞純王后王女和緩翁主などを巻き込み英祖との離間策試みた。この策は上手くはまり、荘献世子精神病んでしまい異常行動を取るようになった。それに激怒した英祖自決命じ最終的に荘献世子庶民落とされ米びつ閉じ込められ餓死させられる事件後、荘献世子には「思悼」と言う諱号送られた。この事件深く悔やんだ英祖は蕩平策をさらに強めるが、朝廷内の党派はさらに分裂生じ荘献世子の死は正当であるとする老論中心とした僻派朝鮮語版)(時流に逆らう派閥という意味)とその死に同情し不当とする南人少論中心とした時派(朝鮮語版)に別れそれぞれの党派どちらか属すなど、党派分裂はさらに混乱極めた。 なお、この時代1763年には日本赴いた朝鮮通信使サツマイモ持ち帰っており、飢饉時の食糧対策として取り入れられた。 英祖晩年になると、水面下行われていた党争は再び表面現れて来る。英祖治世期間は52年と非常に長く次代正祖時代に入ると新たな局面迎える。謀殺された荘献世子息子であった正祖は、1776年王位に就く反対勢力である老論排除始め、自らの側近朝廷内を固めた。その代表格洪国栄であり、洪国栄実際政務取り仕切っていた。この時代洪国栄勢道政治時代と呼ぶ。しかし1780年王妃毒殺未遂事件発覚する洪国栄追放され正祖による文化政治が行われる。基本的に英祖の蕩平政治の継承であり、派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策であった英祖晩年劇的に構成変化した党派僻派と時派を中心にした蕩平策を取り入れた正祖党争嫌っていたものの、父の死を正当とする僻派勢力よりも父の死同情的な時派寄り立場取った。しかし、僻派と時派による政治的党争依然として続いたままであった

※この「蕩平策による王権強化」の解説は、「李氏朝鮮」の解説の一部です。
「蕩平策による王権強化」を含む「李氏朝鮮」の記事については、「李氏朝鮮」の概要を参照ください。

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