英国法の継受
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 03:06 UTC 版)
「オーストラリアの司法制度」の記事における「英国法の継受」の解説
オーストラリアの司法機関と法律の慣習が単一文化的性質であるのはイギリスを起源するためである。現代の国際法の概念、ソフィズム(詭弁)、私有の考えを理由に、イギリスはアボリジニの人々がオーストラリア大陸を法的に所有するには原始的すぎると判断した。イギリスはニューホランド(当時はこの名で知られていた)を、無主地を意味するテラ・ナリアスとして扱うことにした。 イギリス人が入植した無人の土地に英国法が適応されることを枢密院(Privy Council)が認めて以来、アボリジニ先住の土地やアボリジニの習慣、掟は居場所を失った。1828年オーストラリア裁判所法により同年までに可決された全ての英国法が可能な限りニューサウスウェールズ州、及びファン・ディーメンズランド(タスマニア)に適応されることが明記された。クイーンズランド州とビクトリア州は元々ニューサウスウェールズ州の一部であったため、同日に英国法が適応された。しかし、英国法が南オーストラリア州、西オーストラリア州に適応された日は異なる。ニューサウスウェールズ植民地に設置された初期の民事および刑事裁判所は未発達で適応性があり、軍事的であった。司法の正当性が常に遵守されていたわけではないが、裁判所は総督の権限を制限した。また、植民地における法律は英国法よりも平等であることがしばしばあった。 裁判制度は、英国議会の法律を通して英国のモデルを基盤にして1824年までに築かれた。1823年ニューサウスウェールズ法によりすべての刑事及び民事裁判を「王座裁判所、民訴裁判所、国会議事堂の財務裁判所と同様に」裁ける基盤となる最高裁判所が設置された。治安裁判所、四季裁判所、請願裁判所を含む下級裁判所も設置された。 1840年代から1850年代にかけて代議政治が台頭し、19世紀後半には多大な自治権が地方議会に与えられた。植民地議会は無記名投票や婦人参政権など、英国で実現するまで長年要した改革を推し進めた。にもかかわらず、各植民地にまで影響力を持つ英国議会法は、植民地議会において制定された法律を無効にする「最高権力」を持っていた。英国において新たに定められた原則がオーストラリアにおいてもコモン・ロー英: common law)として適応される状態は続いた。例としては、現代のネグリジェンス(英:Negligence)法の発端である有名なドナヒュー対スティーヴンソン事件の原則は、コモン・ローが継受された時点で適応されることが潜在的に決まっていた。
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