若草劇場の時代とは? わかりやすく解説

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若草劇場の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/08 14:41 UTC 版)

スカラ劇場 (ソウル特別市)」の記事における「若草劇場の時代」の解説

1935年昭和10年12月30日日本統治する朝鮮京城府若草町41番地現在の大韓民国ソウル特別市中区41番地)に若草劇場若草館とも)として新築落成、翌31日開館する大正館櫻井町1丁目26番地現在の仁峴洞1街26番地1912年開館)を同館の前身とし、木造であり老朽化した大正館取壊しその敷地に同館を新築した、とする資料があるが、所在地異なるため、同館新築およびその前身について経緯不明である。同館の建築費用当時金額25万円1935年)であり、鉄骨鉄筋コンクリート造地下一階二階建敷地面積300坪(約991.7平方メートル)、延べ面積658坪(約2,175.2平方メートル)、着工から完成まで半年建てられたものであった半円形エントランス道路向かって突出した、独特の形状を持つ建築物であった1939年昭和14年)の時点では、同館の興行系統東宝映画および洋画欧米からの輸入映画)とされ、東宝映画1937年昭和12年9月10日に4社合併によって設立されトーキー会社であり、同館では開館当初からトーキー上映していた。封切館であった同館は、明治座現在の明洞芸術劇場明治町1丁目54番地現在の明洞1丁目54番地)、京城宝塚劇場(かつての黄金館、のちの國都劇場黄金町4丁目310番地現在の乙支路4街310番地1913年開館とともに1等級館」に分類された。これら「1等級館」は京城劇場現在のソウル劇場本町3丁目94番地現在の忠武路3街94番地とともに一流劇場みなされ中央館永楽町1丁目48番地現在の洞1街48番地1921年開館)、喜樂館本町1丁目38番地現在の忠武路1街24番地)、大陸劇場團成社から一時改称、授恩町56番地現在の鍾路区廟洞56番地)が二流劇場優美館(貫鐡町89番地現在の鍾路区89番地)、第一劇場鐘路4丁目1番地現在の鍾路区鍾路4街1番地)、東洋劇場(竹添町1丁目62番地現在の正路1街62番地)等は三流劇場考えられた。 1940年昭和15年前後時期東寶若草劇場と名称を変更、「東宝」の文字冠した。同府内には同館のほか、京城宝塚劇場東宝文化劇場(かつての中央館)と東宝系の映画館が3館存在した第二次世界大戦始まり戦時統制敷かれ1942年昭和17年)、日本におけるすべての映画同年2月1日設立され社団法人映画配給社配給になり、映画館経営母体かかわらずすべての映画館紅系白系2系統組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には同館の興行系統については記述されていない。同資料によれば当時の同館の経営岡本清次郎個人経営であり、支配人には名がない。観客定員数は1,000であった。同館を経営した岡本清次郎は、戦後愛媛県松山市映画館経営した人物である。のちに脚本家となった井手俊郎は、同時期に同館で支配人務めていたという。

※この「若草劇場の時代」の解説は、「スカラ劇場 (ソウル特別市)」の解説の一部です。
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