若草劇場の時代
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「スカラ劇場 (ソウル特別市)」の記事における「若草劇場の時代」の解説
1935年(昭和10年)12月30日、日本が統治する朝鮮の京城府若草町41番地(現在の大韓民国ソウル特別市中区草洞41番地)に若草劇場(若草館とも)として新築・落成、翌31日に開館する。大正館(櫻井町1丁目26番地、現在の仁峴洞1街26番地、1912年開館)を同館の前身とし、木造であり老朽化した大正館を取壊しその敷地に同館を新築した、とする資料があるが、所在地が異なるため、同館新築およびその前身についての経緯は不明である。同館の建築費用は当時の金額で25万円(1935年)であり、鉄骨鉄筋コンクリート造地下一階・二階建、敷地面積300坪(約991.7平方メートル)、延べ面積658坪(約2,175.2平方メートル)、着工から完成まで半年で建てられたものであった。半円形のエントランスが道路に向かって突出した、独特の形状を持つ建築物であった。 1939年(昭和14年)の時点では、同館の興行系統は東宝映画および洋画(欧米からの輸入映画)とされ、東宝映画は1937年(昭和12年)9月10日に4社合併によって設立されたトーキーの会社であり、同館では開館当初からトーキーを上映していた。封切館であった同館は、明治座(現在の明洞芸術劇場、明治町1丁目54番地、現在の明洞1丁目54番地)、京城宝塚劇場(かつての黄金館、のちの國都劇場、黄金町4丁目310番地、現在の乙支路4街310番地、1913年開館)とともに「1等級館」に分類された。これら「1等級館」は京城劇場(現在のソウル劇場、本町3丁目94番地、現在の忠武路3街94番地)とともに一流劇場とみなされ、中央館(永楽町1丁目48番地、現在の苧洞1街48番地、1921年開館)、喜樂館(本町1丁目38番地、現在の忠武路1街24番地)、大陸劇場(團成社から一時改称、授恩町56番地、現在の鍾路区廟洞56番地)が二流劇場、優美館(貫鐡町89番地、現在の鍾路区貫鉄洞89番地)、第一劇場(鐘路4丁目1番地、現在の鍾路区鍾路4街1番地)、東洋劇場(竹添町1丁目62番地、現在の忠正路1街62番地)等は三流劇場と考えられた。 1940年(昭和15年)前後の時期に東寶若草劇場と名称を変更、「東宝」の文字を冠した。同府内には同館のほか、京城宝塚劇場、東宝文化劇場(かつての中央館)と東宝系の映画館が3館存在した。第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、1942年(昭和17年)、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には同館の興行系統については記述されていない。同資料によれば、当時の同館の経営は岡本清次郎の個人経営であり、支配人欄には名がない。観客定員数は1,000名であった。同館を経営した岡本清次郎は、戦後、愛媛県松山市で映画館を経営した人物である。のちに脚本家となった井手俊郎は、同時期に同館で支配人を務めていたという。
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