芸風・落語観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:43 UTC 版)
実力と幅広さを兼ね備えた個性的な噺家である。 古典落語は、エンターテイメント性に富む語り口ながら、古典の味わいをそこなうことなく、円熟した落語を聴かせる。滑稽噺はもとより、師のさん喬ゆずりの人情噺、さらには「死神」「蛇含草」などといったダークな噺でも、迫真の語り口で聴衆を圧倒する。「擬宝珠」や「綿医者」「にゅう」といった、演者の絶えた珍しい古典演目の蘇演も手がけており、また、後半の内容が陰惨なため前半で切り上げられることの多い「宮戸川」を通しで演ずる数少ない噺家でもある。 「ハワイの雪」「純情日記横浜篇」といった新作落語にあっては、現代的な題材と巧みな構成が際立ち、そこでは文学的な繊細な描写が展開される。その一方で「歌う井戸の茶碗」、「諜報員メアリー」や「寿司屋水滸伝」などナンセンスなギャグが満載の作品、エキセントリックなまでに先鋭的な作品もあり、創作力・演出力ともに非凡である。 また、自作の歌をCD化したり、江戸川乱歩の作品を演じるなど、落語を様々なかたちで見せるオールラウンドプレイヤーであることも喬太郎の持ち味のひとつとなっている。 「マクラ」(落語で本題に入る前の部分)のおもしろい落語家としても有名であり、柳家小三治や立川志の輔などと同様、マクラ自体がひとつの芸の域に達していると評される。ことに「時そば」は、そのマクラの内容から「コロッケそば」の異名をとるほど有名である。 落語については、しょせん芸能の一分野にすぎないという見解に立ち、自分の価値観の中でその時聴いて面白ければそれでよいとしている。一般論としては落語論・落語評論といったものを語ることに否定的で、論じるよりも稽古することが大切だというスタンスをとり、また、聴衆には「落語に関する知識は必要ない」とし、さらには「知識がなくて楽しめないのであれば、それはもともと面白くない落語である」と語っており、難しく考えず気楽に落語を愉しむことを提唱している。
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