船員教育
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「本庄村 (兵庫県武庫郡)」の記事における「船員教育」の解説
詳細は「神戸商船大学」を参照 甲種実業学校として川崎汽船による私立川崎商船学校の設立が認められたのは大正6年(1917年)の事である。校地は大阪府浜寺から兵庫県明石までに至る大阪湾岸を巨細に調査の結果、北に六甲山を望む景勝地たる深江の海岸、高橋川河口西岸が選ばれた。開設にあたり、海浜の砂留め工事の必要があり、敷地内四ヶ所に2間乃至16間の突堤を築くこととなり、これが漁業に支障ありとして大正7年7月、500円の報償を深江浦漁業組合に寄付する契約を結んで、翌4月に納入された。この工事を出願したのは深江に海浜住宅を最初に建設したエドワード・ハズレット・ハンターの長男範多龍太郎である。 1918年4月、航海科30名・機関科20名の計50名が入学。 1919年川崎造船所が川崎汽船より分離すると同時に甲種実業学校程度では国際航路船舶職員の育成に不十分であるとして中学卒業以上の学力を有する者を入学資格とする官立商船学校と同等の専門学校へ昇格させるため、全施設を政府に献納し、1920年8月12日に文部省により神戸高等商船学校が設立され、第二学年までの在校生はそのまま神戸高等商船学校付設商船学校の生徒となり、1923年3月全員の卒業をもってこれを廃した。 更に高橋川河口より北へ35間5分余に護岸工事をし、併せて一部を埋め立てて係船地と斜堤を設けることとなり、1922年10月漁業権に影響を与えるとして深江浦漁業組合に慰藉料2500円の支払い約束をした。 1945年4月1日、高等商船学校の改組により、神戸高等商船学校は商船学校神戸分校となった(1946年3月に廃止)。同時に運輸通信省により海技専門学院が同地同施設を利用して開校した。これには海上実歴のある船員に対して船舶運航に必要な学術技能を教授する目的があったが、同年5月11日と8月6日の空襲により全焼し、魚崎小学校などへ本部を移したまま終戦を迎えた。1946年、芦屋市西蔵町にあった日本海洋報国団の施設を借用して移転し、同年末より深江校舎の修復を始め、1947年5月、一部が復旧し、1948年4月7日に本部が復帰した。1952年に神戸商船大学となり、平成15年(2003年)神戸大学海事科学部となって現在に至る。
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