自由主義陣営の裏方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/27 06:42 UTC 版)
「パウル・ファン・ゼーラント」の記事における「自由主義陣営の裏方」の解説
1939年、パウルは家族を連れ渡米した。1941年、ベルギー政府がロンドンへ設置した戦後処理研究委員会(CEPAG、Commission pour l’étude des problèmes d’après-guerre)の会長となった。 1939年9月初め、国際決済銀行がベルギー国庫証券を1250万ギルダーで購入し、発行地アムステルダムにあるオランダ銀行へ預託した。満期となる1940年5月29日、ベルギーがナチス・ドイツに降伏してしまった。そこでマルセルがフランスに亡命したジョルジュ・ヤンセン(Georges Janssen ,1938-1941)に面会して償還を求めた。蔵相カミーユ・ギュット(Camille Gutt)が償還に反対し、亡命先のロンドンに中央銀行をつくった上でマルセルをロンドンに連れて来いと要求したが、マルセルがジョルジュ・ヤンセンと7月に取り決めた内容に反するとしてBIS総裁のマキットリク(Thomas H. McKittrick)が要求を却下した。ベルギー総合会社のアレクサンドレ・ガロパン(Alexandre Galopin)などがブリュッセルにとどまってナチス・ドイツに協力した。モーリス・フレールは1941年12月まで占領下ベルギーの代表としてフランス銀行との交渉を取り仕切っていたが、年明けに連合国へ身を移した。1944年9月、モーリス・フレールは統合された国立銀行の総裁となり、1946年にはBIS理事会の議長となった。1946年、パウルがベルギー上院議員となり、モロッコの経済会議を主催した。1949年、ガストン・エイスケンス政権で外相を務めた。パウルは経済協力欧州会議(European League for Economic Cooperation)や欧州石炭鉄鋼共同体の設立を主導した一人となった。 1956年、パウルは政界を下野した。以来あらゆる企業で顧問となった。1959年、欧州からパウルふくむ十数人が参加して西欧顧問会議(West European Advisory Commitee)を設立した。これが自由主義欧州会議(Free Europe Committee)との外交ルートを短縮した。北大西洋条約機構が勢力を拡大する中、60年代半ばにパウルが西欧顧問会議の副会長となった。
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