自由主義革命との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 14:02 UTC 版)
「フェルディナンド2世 (両シチリア王)」の記事における「自由主義革命との対立」の解説
しかし27歳の時にシチリアで大規模な立憲君主制移行を求めるデモが発生すると態度を硬化させて、これを軍で鎮圧すると共に自由主義と距離を置くことにした。王国の知識人階層は再三に亘って憲法の制定と立憲君主制への移行を求めたが、あくまで王国の再建は親政をもって行われるべきとの路線は変えなかった。先代から引き継がれた格好になった王とシチリア島、王と自由主義者の対立は、1847年9月のカラブリアとメッシーナでの大暴動で頂点に達した。王に忠実な軍は反乱を弾圧したが、1848年1月12日にシチリア全土で農民反乱が発生すると収拾がとれなくなった。一連の騒動は欧州で巻き起こっていた1848年革命の一幕と考えられている。革命騒動が本土にまで波及すると、フランチェスコ2世は妥協を選択して1848年憲法の制定を認め、両シチリア王国は立憲君主制に基づく議会政治で統治されることになった。 しかし議会に対する監督権は王の下に残され、これを巡って議会で議論が起こり、議会は王に実権を全て手放すように要求した。王が議会の要請を拒絶すると再び暴動が起きたが、今度はフランチェスコ2世も譲らず、軍を動員して徹底した弾圧を行った。戦いは王党派の勝利に終わり、1849年3月13日に国民議会は解散された。憲法に関しては維持を認めたために立憲君主制ではあり続けたが、当初より専制的な形で統治が行われる結果となった。また同時期に教皇領でも革命が起きてローマ共和国が成立すると、教皇を離宮に匿って教会との協調を再度明確にした。 革命の最中、1848年4月13日にシチリア島は自由政府を樹立して独立を宣言した。自由政府は国際社会に王が独立を保障したと宣言したが、実際にはフェルディナンド2世の命によって2万人の王国兵がシチリアに上陸した。王国軍は反乱軍を軒並み打ち破ると全土を再占領して、更に海軍を用いて徹底的に海沿いの町を破壊する報復を行った。シチリアの独立派はフェルディナンド2世を「砲撃王」と憎しみを込めて呼んだ。1849年5月15日、本土に遅れる形ではあるが、シチリア島の自由主義革命も鎮圧された。
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