自由主義者としての前半生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/26 06:52 UTC 版)
「フアン・ドノソ・コルテス」の記事における「自由主義者としての前半生」の解説
エストレマドゥーラ州バダホス県のバジェ・デ・ラ・セレーナで生まれる。生家はコンキスタドールのエルナン・コルテスの子孫であり、父のドン・ペドロは弁護士でフランス啓蒙主義や自由主義の影響を受けていた。11歳の時には人文学を修め、12歳でサラマンカ大学に進み法律を学んだ。16歳の時にセビリア大学から学位を取得し18歳でカセレスの大学で講義した。1830年以降彼はマヌエル・ホセ・キンターナの影響を受けた保守的な自由主義者として政治に参画した。1836年には下院議員になり、マリア・クリスティーナ・デ・ボルボンが摂政を務めた頃にはその個人的な秘書として活躍した。しかし1840年以降、バルドメロ・エスパルテロ将軍率いる進歩主義者とラモン・ナルバエス将軍を中心とする保守主義者が争うようになり、エスパルテロ一派が政権を握ったためドノソ・コルテスはマリア・クリスティーナ摂政と共にパリへ亡命を余儀なくされる。このパリ時代にドノソ・コルテスはジョゼフ・ド・メーストルやルイ・ガブリエル・ド・ボナールの著作に接し、カトリシズムへと傾斜するようになった。1843年にはナルバエス将軍が政権を奪還し、マリア・クリスティーナ摂政と共に帰国する。
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