聖秀学院高校編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 13:57 UTC 版)
なお面接の段階で多くの男子生徒は定時制に所属しており、全日制の男子生徒は少ないことを知らされた。そこで数少ない男子生徒を集めて自らの手で野球部を創設。しかし1人で勝つことに執着してしまい、他の生徒は野球に縁がなく消極的で、実際に横浜帝仁高校と練習試合するも捕手が薫だったことで田代は吾郎の球を「誰がその剛速球を取るのか」と文句を言われ、途中から藤井が付くが素人だったが故に手を負傷してしまい、捕手経験のあった田代がマスクを被った。しかし、練習免除で試合に参加させてまで野球をやることに拘ったことで顧問の山田からその姿勢を問題視される。前述の2年秋に2年5名・1年3名の計8名で横浜帝仁高校との練習試合に勝利後、屋上にグラウンドを作るが顧問の山田は吾郎を含む部員に内緒で父・英毅にコーチを依頼する。英毅はプロアマ規定があることや親子共々やりづらいと保留したが山田は「現時点では高野連に加入しておらず、部ではなく同好会であるから問題ない。そして親子だからこそ引き受けてほしい。このままじゃ彼は海堂はおろか、海堂と戦う前に敗退する。協力してほしい」と頼まれ承諾。コーチを買って出た父・英毅は厳しい練習を課したがについていけず屋上から去ってしまう。英毅は吾郎に「集団スポーツの野球で1人で勝とうなんて間違ってる。その甘い夢を捨てさせるためにコーチを引き受けた」と遠回しに吾郎の過信を指摘したうえで「自分以外に何も守るものを持たない孤独な人間に、本当の栄光は掴めない」と助言を送る。入部を取り消そうとした部員たち(藤井と田代は除く)の心を自らが野球を一から教えることで開かせ「全員合格だ」と言われている(第3シリーズ7話冒頭。創部時の1年生が3年次、第4シリーズ16話半ばで、「2年から始めた野球だけど」とコメントしているが実際は1年の秋である)。3年の春、再び江頭の妨害(一軍当落線上の選手である蒲田に吾郎の足を踏ませ、故意負傷をさせる)に遭い、海堂二軍との練習試合で右足首に靭帯断裂と骨折を負う。退院後に英毅からは「将来を見据えた行動を取れ」と苦言を呈されるも、「今の自分には海堂と戦う事の方がプロ入りや将来の事よりも大切な事」と出場が絶望的な状態でも諦めず、夏の大会では毎試合痛み止めを打ち全登板する。
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聖秀学院高校編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 07:52 UTC 版)
現役生活を20年近く過ごし、40歳を超えて通算300勝を達成した(正しくは39歳)。試合後のインタビューで、自分のモチベーションの源である日本の野球少年(吾郎)に感謝の意を表明した。そのニュースを見た吾郎が、発言の真意を日下部(元 通訳)を通して問い合わせたところ、直筆のファックスで回答する。ギブソンは、いつの日かメジャーで吾郎と戦うことを夢見ていたが、日本でドラフト指名を約束されていた吾郎が、高卒後すぐにメジャーに挑戦をすることはリスクが高いとして、望んでいなかった。しかし、この回答が吾郎のメジャー挑戦を決意させるきっかけとなった。
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聖秀学院高校編
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 06:51 UTC 版)
ソフトボール部のエースを務める。2年の時に「打倒・海堂」を胸に聖秀に編入してきた吾郎と再会し、ソフトボール一筋と思いつつ、抑えきれない恋心に戸惑う。野球部新設を目指した吾郎が部員集めのために組んだ練習試合では捕手を務めて吾郎の剛球を受け、横浜リトル・シニアでレギュラーだった弟・大河を入部させるなど、陰日なたに協力。吾郎の苦闘を最後まで見つめ続ける。高校卒業後は杏和女子学院大学に進学した。
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