耿滕・陳総を殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 10:00 UTC 版)
正式な詔が益州に届くと、文武の官吏千人余りが少城にいる耿滕を出迎え、耿滕は彼らを伴って太城へ向かった。当時、成都郡の政治は少城で、益州の政治は太城でそれぞれ執り行われていたが、趙廞は太城から立ち退こうとしなかった。さらには密かに李庠の党類である羅安・王利らを差し向け、耿滕を脅して太城に向かわせないようにした。羅安らは広漢郡の宣化亭において耿滕を大いに破った。この時、朝廷からの詔を伝えに来ていた使者を殺害したともいう。 それでも耿滕は太城へ入る意思を崩さなかったので、功曹陳恂は「今、益州と成都との溝は日々深まっており、入城すれば必ずや禍が起こります。今暫くは少城に留まり、情勢を良く見極めるべきです。そして、諸県へ秦氐(流民達)と対抗するよう檄文を飛ばし、西夷校尉陳総が成都へ到着するのを待つべきです。それでなければ、犍為まで退き、江源を渡って不測の事態に対処できるようにするべきです」と進言したが、耿滕はこれに従わなかった。 12月、耿滕が西門より入城すると、趙廞は側近である代茂に耿滕の捕縛を命じたが、代茂はこれに反対して彼の下を去ってしまった。その為、趙廞は再び李庠を始め配下の将を派遣して耿滕を攻撃させ、これを撃ち破った。敗亡を悟った耿滕は少城より身を投げたという。耿滕の官吏である左雄は、耿滕の子である耿奇を背負って平民の宋寧が所有する蔵へ逃げ込んだ。趙廞は千金の懸賞をかけて耿奇の身柄を求めたが、宋寧は隠し続けた。趙廞はその後も捜索を続けたものの、遂に最期まで見つける事が出来なかった。耿滕の死により、配下の官吏はみな逃走してしまったが、陳恂だけは後ろ手に縛られた格好で趙廞の下へ出向し、耿滕の喪を執り行う事を願い出た。趙廞はこれを義として許した。陳恂は戸曹掾常敞と共に棺を伴って耿滕の家へ赴き、葬儀を執り行った。 さらに趙廞は成都へ向かっていた西夷校尉陳総を逆撃する為に李庠らを派遣した。陳総は江陽まで軍を進めた時、趙廞の反乱を知った。主簿趙模は「今、州と郡は対立し合っており、必ずや大きな変事を引き起こすでしょう。ここは急いで行軍するべきです。府の兵力をもって、道理に従い逆賊を討つのです。そうすれば誰が(趙廞に)呼応しましょうか!」と進言したが、陳総は行軍せずに南安の魚涪津に軍を留めた。やがて趙廞軍が到来すると、趙模は陳総へ「金銀財宝を惜しまず募兵を行い、防戦に当たるべきです。もし勝利を得られれば州を平定することが出来、もし敗北しても川の流れを利用して退却すれば、害が及ぶことはありません」と献策したが、陳総は「趙益州(趙廞)は耿侯(耿滕)と対立していたから殺したのだ。我とは何の因縁もないのに、なぜそのような事を為す必要があるのか」と反論した。趙模はなおも「今、既に州は決起しており、必ずや威勢を示そうと考えております。戦わなければ殺されるだけです」と涙を流して諫言したが、陳総は取り合わなかった。結局、陳総軍は趙廞軍の攻撃を受けて壊滅し、陳総は草むらを逃走した。趙模は陳総の服を着て敵陣に突っ込んで戦死したが、趙廞の兵がその死体をよく見ると陳総ではないと気づき、更に陳総を探し求め、見つけだして殺した。 また同時期、趙廞と対抗する犍為郡太守李苾・汶山郡太守霍固へも討伐軍を派遣し、これを滅ぼした。
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