繰り返す暗殺計画の延期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:46 UTC 版)
「クラウス・フォン・シュタウフェンベルク」の記事における「繰り返す暗殺計画の延期」の解説
フォン・シュタウフェンベルクは1944年6月20日に正式に国内予備軍参謀長に任命された。ソ連軍が東プロイセンに迫っていた。一日でも早くヒトラーを殺し、米英と講和せねばドイツ領がソ連に踏みにじられる。 1944年7月6日にベルクホーフの会議に出席した。この時には爆弾を携帯していった。ヘルムート・シュティーフ少将が暗殺を決行してくれると期待していたようだが、シュティーフが実行せずに失敗した。 1944年7月11日のベルクホーフでの会議にも出席。しかしこの日の会議にはヒムラーとゲーリングが出席していなかった。レジスタンスグループの中心人物であるルートヴィヒ・ベック退役上級大将はヒムラーとゲーリングは一緒に殺害した方がよいと考えていた。エーリヒ・ヘプナー退役上級大将、オルブリヒト大将、エーリヒ・フェルギーベル大将らはゲーリングについては特に問題視していなかったが、ヒムラーは絶対に殺さねばならないと主張していた。ヒムラーが生存しているとSSと国防軍の間で内乱が始まる恐れがあったためである。オルブリヒト大将と連絡を取り、ヒムラーがいない事を告げると、彼は中止を指示した。フォン・シュタウフェンベルクはシュティーフに向かって「こん畜生め。行動すべきではないのか」と口にしたという。 1944年7月14日、ヒトラーは予告なしでベルクホーフからソ連との前線が近い東プロイセンのラステンブルクの総統大本営「狼の巣」へ移住。フロムとフォン・シュタウフェンベルクも7月15日にそこへ来て、東部戦線へ投入する新しい師団立ち上げについて報告するよう命じられた。フォン・シュタウフェンベルクは1942年秋以来「狼の巣」に来た事がなく土地勘がほとんどなかったが、敵がドイツ国土に迫っている今、ヒトラーがベルクホーフに戻るのを待つ時間はなかった。「狼の巣」で暗殺を決行することとした。 フロムとフォン・シュタウフェンベルクがベルリンを発った後、ベルリン・ベントラー街のオルブリヒト大将とその副官アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム大佐はフロムがいないのを好機として「ヴァルキューレ作戦」を発動し、ベルリン郊外の陸軍学校と予備訓練部隊に最高レベルの緊急出動態勢を取らせた。事前に「ヴァルキューレ作戦」を発動したのはこの時だけだった。 7月15日午前にフォン・シュタウフェンベルクが「狼の巣」に到着。この7月15日にはヒムラーも「狼の巣」に滞在していた。だが何故か同日3回行われた会議いずれもヒムラーが出席していなかった。ヒムラーが最終的に出席しない事が確認された後、フォン・シュタウフェンベルクは会議を抜け出してベントラー街のフォン・クイルンハイム大佐と連絡を取り、ヒムラーが不在だが、決行したいので許可が欲しい旨を伝えた。フォン・クイルンハイムはその旨をオルブリヒト大将、さらに電話でベック退役上級大将、ヘプナー退役上級大将らに連絡した。しかし将軍たちは計画中止を命じた。フォン・シュタウフェンベルクは堪らず、フォン・クイルンハイムに「僕ら二人で決めるしかない」と言い、将軍たちの指示を無視する事を提案した。フォン・クイルンハイムも「やりたまえ」と答えたが、すでに時期を失していた。ヒトラーはその後まもなく会議を終了させてしまった。一方、ベントラー街のオルブリヒト大将とフォン・クイルンハイム大佐は「演習だった」としてベルリンの警戒態勢を解除して取り繕った。後にこの「間違った警報」の件でカイテル元帥がフロム上級大将を叱り、さらにフロム上級大将がオルブリヒト大将を叱った。しかしなんとかクーデタの意志は隠し通せた。 フォン・シュタウフェンベルクが意気消沈してベルリンへ戻るとフォン・クイルンハイムと話し合った。二人の意見は次のチャンスには将軍たちの意向は無視しようということで一致した。
※この「繰り返す暗殺計画の延期」の解説は、「クラウス・フォン・シュタウフェンベルク」の解説の一部です。
「繰り返す暗殺計画の延期」を含む「クラウス・フォン・シュタウフェンベルク」の記事については、「クラウス・フォン・シュタウフェンベルク」の概要を参照ください。
- 繰り返す暗殺計画の延期のページへのリンク