繰り返す計画延期
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1944年7月6日、シュタウフェンベルク大佐は、ベルヒテスガーデンにあるヒトラーの別荘ベルクホーフで行われた会議に出席し、この時初めて爆弾を携帯した。当初、シュティーフ少将が暗殺を決行してくれると期待していたようだが、彼が実行せず失敗した。 7月11日のベルクホーフでの会議。しかしこの日、ヘルマン・ゲーリングとハインリヒ・ヒムラーが出席していなかった。この時点では「黒いオーケストラ」グループは、ヒトラーと共に他のナチス首脳も暗殺すべきだと考えていた。彼らはゲーリングは特に問題視しなかったが、親衛隊指導者ヒムラーは暗殺せねばならないと主張。彼が生存していると、親衛隊と陸軍の間で内乱になる恐れがあったからだ。シュタウフェンベルクは会議を抜け出しオルブリヒトに連絡。ヒムラー不在を告げると、オルブリヒトは計画中止を指示。落胆した彼はシュティーフに向かって「こん畜生め!行動すべきではないのか?」と口にしたという。 7月14日、ヒトラーは予告なしでベルクホーフから、東プロイセンのラステンブルクの総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の砦)」へ移動。一方、シュタウフェンベルクは、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将と共に7月15日に出頭し、東部戦線へ投入する新しい師団の立ち上げについて報告するよう命じられた。彼は1942年秋以来「ヴォルフスシャンツェ」へ行った事が無く土地勘は無かったが、今やヒトラーがベルクホーフに戻るのを待つ時間は無く、総統大本営での暗殺決行を決意した。2人がベルリンを発った後、ベントラー街のオルブリヒト大将とその副官アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム大佐は、フロムの留守を好機に「ヴァルキューレ作戦」を発動。ベルリン郊外の陸軍学校と予備訓練部隊に最高レベルの緊急出動態勢を取らせた。事前に「ヴァルキューレ作戦」を発動したのはこの時だけだった。 7月15日もヒムラーは会議には出席していなかった。彼の欠席を確認後、シュタウフェンベルクは会議室を抜け出し、ベルリンのクイルンハイム大佐に連絡。ヒムラー不在だが、それでも決行したいので許可が欲しい旨を伝えた。クイルンハイムはそれをオルブリヒト、さらにベック、ヘプナーにも伝えたが、将軍たちは計画中止を命じる。シュタウフェンベルクは「僕ら2人で決めるしかない」と言い、将軍たちの指示を無視する事を提案した。クイルンハイムも「やりたまえ」と答えたが時すでに遅し、会議はその後すぐに終了してしまった。一方、オルブリヒトたちは「あれは演習だった」としてベルリンの警戒態勢を解除して取り繕った。後刻この「間違った警報」の件でカイテル元帥がフロム上級大将を叱責し、さらにフロムがオルブリヒトを叱った。ただ、かろうじてクーデターの真意は隠し通せた。シュタウフェンベルクは意気消沈してベルリンへ戻ると、クイルンハイムと話し合う。2人は、次のチャンスには将軍たちの意向は無視しよう、ということで一致した。 7月19日、翌20日午後1時から総統大本営で開かれる作戦会議に予備軍幕僚を派遣するよう再び命令が下り、シュタウフェンベルクと副官ヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉が出頭する事になり、今回はフロムは招集されなかった。このように、1944年7月には、何度か暗殺計画が企てられたが、決行せずに延期が繰り返された。
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