織田信長の上洛と野田城・福島城の戦い
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「篠原長房」の記事における「織田信長の上洛と野田城・福島城の戦い」の解説
しかし同年、15代将軍・足利義昭を擁立した織田信長が9月7日に岐阜城を出立、12日に六角義賢の近江観音寺城が陥落(観音寺城の戦い)、25日に大津まで進軍すると、篠原長房と三人衆の軍は崩壊する。更に29日に山城勝龍寺城に退却した岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城に退却した細川昭元・三好長逸が城を放棄、10月2日には長房も越水城を放棄し、阿波国へ落ち延びた。その上、10月20日に足利義栄が阿波国で病死、松永久秀と三好義継は信長に臣従、11月10日には長房暗殺未遂事件が起きている。 長房らは阿波で信長への反撃への体制を整え、永禄12年(1569年)1月、三好三人衆が和泉国に上陸、本圀寺の義昭を襲撃した。しかし、細川藤孝や三好義継、摂津国衆の伊丹親興、池田勝正、荒木村重らの援軍に敗れ、再度阿波国に逃れている(本圀寺の変)。 元亀元年(1570年)6月、三好長逸に通じた荒木村重が池田勝正を追放すると、同年7月21日、三好康長と三人衆は摂津中嶋に再度上陸、野田城・福島城を築城した。8月に入り、信長は三人衆を討つため摂津へ遠征し、26日に野田城・福島城を攻めるも、9月13日の石山本願寺の参戦もあり、三人衆は信長の攻勢に対し持ちこたえる。 さらに、浅井長政・朝倉義景軍が琵琶湖西岸を南下、信長の重臣・森可成と弟・織田信治を討死させると(宇佐山城の戦い)、信長は浅井・朝倉軍が京都へ侵入することを恐れ、9月23日に三人衆の討伐を諦め、摂津国からの撤退を開始(野田城・福島城の戦い)、近江国まで退き比叡山延暦寺に陣取る浅井・朝倉軍との長滞陣となった(志賀の陣)。 一方の長房は、9月19日に本願寺法主・顕如から盟約を結ぶ書状を受け取り、27日に阿波・讃岐の軍勢を率いて兵庫浦に上陸、瓦林城および越水城の城主・瓦林三河守を討ち取り、10月1日に野田城・福島城に入城、更に山城へ向けて進軍した。しかし、11月21日に織田方の松永久秀の仲介により長房と久秀の間で人質交換が行われ和睦が成立している。
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