編曲の経緯
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「カルメン (オペラ)」の記事における「編曲の経緯」の解説
1967年に『カルメン』をモチーフにしたバレエが上演されることになり、主演のプリマドンナだったマイヤ・プリセツカヤは最初ショスタコーヴィチに、次いでハチャトゥリアンに編曲を依頼したが、両者とも「ビゼーの祟りが怖い」という理由で断り、仕方なくプリセツカヤの夫であったシチェドリンが編曲することになった。肝心のバレエの初演はブレジネフらの横槍もあって大失敗したが、のちに国外で評価されるようになった。
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編曲の経緯
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『扶桑歌』の後部が切除され、その代わりに『抜刀隊』が現在の形で挿入された。その後、1902年(明治35年)にさらに中部が切除され、前奏後からすぐに『抜刀隊』の旋律に入るように改められ、現在の形となった。現在の状態で録音されたSPレコードに『分列式行進曲(エッケルト曲)』があり、同時期に陸軍戸山学校で教鞭をとっていたドイツ人作曲家フランツ・エッケルトが最終的な和声を行なった可能性がある。 堀内敬三『ヂンタ以來』アオイ書房、昭和9年(1934年)p.52~p.53に「(前略)「扶桑歌」行進曲の中のトリオの部分をカットして其の代りに「拔刀隊」の曲をトリオにした行進曲があるのです。これは大正五年にセノオ楽譜から出た「観兵式行進」の初版がそれです。此の譜の中では既に「拔刀隊」の旋律が現形になつてゐます。此の行進曲は「扶桑歌」と「拔刀隊」との合成です。即ち序奏と主部が「扶桑歌」、トリオが「拔刀隊」です。明治35年5月に陸軍省で制定した分列行進曲は此の「扶桑歌」及び「拔刀隊」合成の行進曲から主部を省き、序奏から直にトリオ(即ち「拔刀隊」のふし)に入る様になつてゐます。ですから「扶桑歌」の名残りはたヾ序奏だけになつてしまつたのですが、陸軍にある吹奏楽用總譜にそれでもなほ Fou - so - ka の題がついてゐるのです。正に「扶桑歌」行進曲は「拔刀隊」に廂を貸して母屋にとられちまつたのです。セノオ楽譜の「観兵式行進」の第二版以後のものは此の方の譜です。ですから、「扶桑歌」と「拔刀隊」とは實際上では名稱がごちやごちやになつてしまつたのです。」とある。 もとの『扶桑歌』は『陸軍分列行進曲』では前奏のみに残り、トリオ部分は完全に切除されて『抜刀隊』がメインになった。一方、1912年(明治45年)出版の楽譜では、「扶桑歌の前奏 → 「bシ~bミーソ・bミーレー・bラ~ドーレ・ドーbシー」で始まる扶桑歌のトリオの繰り返し → 抜刀隊のトリオ」の順番で編曲されており、当時、どこからどこまでが『抜刀隊』で『扶桑歌』なのか、また、『陸軍分列行進曲』がどの編曲を言うものかはっきりしてはいなかったことがわかる。 1912年(明治45年)出版のピアノ楽譜による『扶桑歌~分列式行進曲~』[ヘルプ/ファイル] 現在でも『陸軍分列行進曲』が『扶桑歌』と呼ばれることもあるのはこうしたことがあるためである。 現在市販のCD等における『陸軍分列行進曲』のアレンジは、「扶桑歌の前奏」→「抜刀隊のトリオ」→もう一度「扶桑歌の前奏」で定着している。
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