絵画の創作と歴史
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「子供時代のエリザヴェータ・ペトロヴナ皇女の肖像」の記事における「絵画の創作と歴史」の解説
ミハイロフスキー城に展示されている肖像画の大きさは136×103.5cmである。ストレッチャーには「№ 92 Приписана Левицкому 3500 р. Оц Негри」という文が銘記されており、封蝋には「Г. Р. М. инв. № 417」 (番号には取り消し線が引かれている)という印が押されている。 フランスの画家ルイ・カラヴァクは、1715年11月13日に、3年間ロシアでの仕事に従事する契約をパリで交わした。彼は画家として、ロシアの「歴史画、肖像画、森林、村、花や動物を大小様々な形で表現する」仕事に就くこととなった。翌年の1716年(または1715年12月)、彼はサンクトペテルブルクに移住し、そこが一生の住まいとなった。カラヴァクは既にピョートル1世と彼の家族の肖像画を描いていたが、転居のすぐ後に、宮廷画家となった。彼は市庁舎(一説にはサンクトペテルブルク庁舎)で勤務し、その後、首脳府に移って年間500ルーブルの俸給を受け取っていた。 絵画『子供時代のエリザヴェータ・ペトロヴナ皇女の肖像』は、エリザヴェータ・ペトロヴナ(1709年-1762年)の当時の年齢の姿が描かれており、彼女が約8歳の時の肖像画である。肖像画は長期間、ツァールスコエ・セローのエカテリーナ宮殿に保管されていた。現在は、サンクトペテルブルクの国立ロシア美術館が所蔵しており、ミハイロフスキー城で展示されている。1896年に死去したアレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー(サンクトペテルブルク)の所有品から、1897年に絵画が発見された。 肖像画が制作された理由は2つ考えられる。 ピョートルと限られた数の外交官は、国民の支持を得るために、皇帝がヨーロッパ的自由の考えを有していることを、彼の娘のヌードの絵画を描くことを許可することで示そうとした。ピョートルはロシアの人々が、ロココ時代のヨーロッパの欲求や嗜好が反映された作品に慣れ親しんでいることを理解していた。 1715年から1717年にかけて、ピョートルは再度フランスを訪れ、ヨーロッパで発生している軍事衝突で、両国の立場を和解させるための糸口を探った。非公式の情報源によると、互いの王室間で家族関係を結ぶというこれまで実現しなかった計画を話していた。肖像画は、エリザヴェータとルイ15世を結婚させようとする彼女の両親の計画と関連している可能性がある。この場合、将来の花嫁をパリに送ることを意図していた。1719年7月25日に、ロシアのアンリ・ラビがパリのギヨーム・デュボワに宛てた書簡が存在している。 我々の皇帝は、王が皇帝の一番下の美しい娘と結婚の儀を交わすことで、王と同盟関係を結ぶことを期待している。今後事が運ぶかは分からないが、彼女はその赤みがかった髪の色が美しいだけにとどまらず、賢く、とても親切で心優しい。 — Наумов В. П. Повседневная жизнь Петра Великого и его сподвижников この説は、同時期にカラヴァクが、皇帝の別の子供にも示唆的な肖像画を描いていたという事実と矛盾する。ピョートル・ペトロヴィッチ(ロシア語版)は、裸のキューピッドの姿で描かれた。
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