絵画のモデル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 18:38 UTC 版)
「ジョアンナ・ヒファーナン」の記事における「絵画のモデル」の解説
ホイッスラーが最初にヒファーナンに出会ったのは1860年で、当時ヒファーナンはロンドンのラズボーン・プレイスのスタジオにいた。その後6年にわたってホイッスラーと関係を持ち、その間にホイッスラーの有名になった絵画のモデルを数回務めた。人目を引く容姿とその個性は非常に印象的なもので、ホイッスラーの伝記作家や、友人たちが多くヒファーナンのことを書き残している。ペネル夫妻はヒファーナンのことを「彼女は美しいだけではなく、知性的で思いやりがある。ホイッスラーにつねに愛情を注ぎ、彼はその愛情なしには何もできないくらいだ」と書いた。 しかしながらホイッスラーの家族はヒファーナンを認めなかった。ヌードになるようなこともあった絵画モデルは、当時では売春婦と大差ない存在と見なされていたためである。しかしヒファーナンは友人たちに頼まれてモデルを務めたに過ぎず、ホイッスラーの家族が認めなかったのはヒファーナンの個人的問題ではなく、社会的階級差が原因だったのかも知れない。1864年にホイッスラーの母がアメリカからロンドンを訪れたときに、同居していたヒファーナンは別の場所に泊まらざるを得なかった。また、ディジョン生まれの画家アルフォンス・ルグロ (en:Alphonse Legros) とホイッスラーとの1864年の諍いはヒファーナンが原因だったとも考えられている。 1861年の夏にホイッスラーとともにフランスを訪れ、1861年冬から1862年にかけてバティニョール大通りのスタジオで『白のシンフォニー第1番-白の少女』のモデルを務めた。このフランス滞在中にホイッスラーの友人で同僚の画家の、後にヒファーナン自身がその作品でモデルとなるギュスターヴ・クールベと出会ったのかも知れない。 1863年にヒファーナンとホイッスラーは交霊会に参加するために、イギリス人画家・詩人だったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのチェルシーの邸宅を訪れ、その後1865年の夏と秋をフランスのトゥルーヴィル=シュル=メールで過ごしている。1866年にホイッスラーが7ヶ月間南米のバルパライソに滞在していたときにはヒファーナンに全権を与え、家計の一切とホイッスラーの絵画作品を自由に売る許可を出した。 ホイッスラーが不在だったこのときにヒファーナンはパリを訪れ、ベッドに横たわった二人の裸の女性を描いたクールベの絵画『眠り』のモデルとなった。パリ滞在中のヒファーナンとクールベが関係をもっていた可能性もある。クールベが1866年に描いた扇情的な絵画『世界の起源』もヒファーナンがモデルではないかとする見解があり、二人の関係に対する疑惑が後年のホイッスラーとクールベが仲違いする原因になった。後にヒファーナンとの関係が終わったホイッスラーはアメリカに戻ったが、ヒファーナンの好意に感謝する遺言を残している。
※この「絵画のモデル」の解説は、「ジョアンナ・ヒファーナン」の解説の一部です。
「絵画のモデル」を含む「ジョアンナ・ヒファーナン」の記事については、「ジョアンナ・ヒファーナン」の概要を参照ください。
- 絵画のモデルのページへのリンク