リトル・ホランド・ハウス
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「ヘンリー・トービー・プリンセプ」の記事における「リトル・ホランド・ハウス」の解説
1835年5月14日、プリンセプはベンガル高等文官ジェームズ・パトル(1775年 - 1845年)の7人の娘たちのうちの三女、セアラ・モンクトン・パトル(1816年 - 1887年)と結婚した。セアラはフランス育ちの有名な美人姉妹パトル姉妹の一員で、世話好きで、洗練されたサロンの女主人となる才能に恵まれていた。 プリンセプ夫妻は英国帰国後の1850年、ケンジントンのリトル・ホランド・ハウス(英語版)を賃借し、この屋敷に多くの政治家・文士・知識人・芸術家を呼び集めた。ラファエル前派の画家ジョージ・フレデリック・ワッツはプリンセプの親友で、主人夫婦の好意に応じて25年ものあいだ屋敷に居候して過ごした。エドワード・バーン=ジョーンズも夫妻の友人として屋敷に頻繁に出入りした。2人の画家たちは、セアラが引き取っていた姪ジュリア・ジャクソン(後のヴァージニア・ウルフの母親)を絵画のモデルとした。また、屋敷を訪れる客たちはしばしばセアラの姉ジュリア・マーガレット・キャメロンの撮影するカメラの被写体となった。 1878年、プリンセプはワイト島のフレッシュウォーター(英語版)にある親友ワッツの家に滞在中に死去した。
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