結婚・日活退社
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その後も粂子は村田監督の『金色夜叉』、溝口監督の『曲馬団の女王』『乃木大将と熊さん』、三枝源次郎監督の『愛の岐路』『吉岡大佐』、阿部豊監督の『人形の家』などに出演。性格女優としてだけでなく、人気スターとしても酒井米子・沢村春子に次ぐ存在となる。1928年(昭和3年)10月23日、京都の資産家の息子である上野興一と結婚、これを理由に翌1929年(昭和4年)に日活を退社する。しかし、夫婦で競馬狂いになり、結婚生活は1年で破綻、1930年(昭和5年)4月に離婚する。日活企画部にいた波多野に身の振り方を相談すると池永所長に会うように言われ、日活太秦撮影所へ行くと、粂子の腕を惜しんでいた池永が即座に復帰を求め、ただちに日活に再入社する。復社初出演は入江たか子主演の『未果てぬ夢』で、溝口監督の『唐人お吉』では発狂して死ぬお松、『しかも我等は行く』では男を渡り歩いた女の若い時と中年の2つの年代を演じ、心理的表現の巧みさを評価された。 1932年(昭和7年)、日活大争議が発生し伊藤大輔、内田吐夢らと「七人組」で退社した村田監督に同脚して日活を退社し、入江ぷろだくしょんに入社。阿部監督の『光・罪と共に』『須磨の仇浪』などに助演し、溝口監督の『瀧の白糸』では、女水芸師一座の下座の三味線弾きで夜鷹になるお銀という悪女を演じ本領を発揮する。 1933年(昭和8年)7月、新興キネマ太秦撮影所に入社し多数の作品に助演、やがて東京撮影所の作品にも出演する。1942年(昭和17年)、新興キネマは戦時下の企業統合で大映となり、粂子も引き続き大映所属となった。
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