結婚、息子たちと晩年の著作
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「イェジイ・ジュワフスキ」の記事における「結婚、息子たちと晩年の著作」の解説
1907年にジュワフスキは二度目の結婚をした。そして、死までに残された数年の間にマーレク(Marek, 1908-85)、ユリウシュ(Juliusz, 1910-99)、ヴァヴジニェツ(Wawrzyniec, 1916-57)という三人の息子をもうけた。マーレク(彼の誕生は偶然にも『勝利者』の執筆開始と同時であった)は父が書く叙事的物語『勝利者』の悲劇的主人公と同名になった。イェジイの早い死のため、子供たちは父から直接にものを教わる機会を持たなかったが、彼らは三人全員が父の登山趣味を受け継ぎ、登山目的の探検に多くの時間を費やした。マーレクは画家に、ユリュウシュは父と同じく詩人・小説家・詩の翻訳家に、ヴァヴジニェツは作曲家になり、三人兄弟は芸術における名声も父から受け継いだ。 1901年以降、時間が許す限り、ジュワフスキはポーランドで最も有名な登山の街ザコパネで過ごした。1910年までには、彼は大きな家を買い、妻子を連れてそこに移り住んだ。彼は地方の文学誌「ザコパネ」の副編集者になり、多くの著名作家や友人たちに歓迎された。例えばカジミェシュ・プシェルヴァ=テトマイエル(Kazimierz Przerwa-Tetmajer)、ヤン・カスプロヴィチ(Jan Kasprowicz)、レオポルト・スタッフ(Leopold Staff)らは定期的にジュワフスキを訪問したものだった。熱狂的な旅行者・スポーツマンであった彼は、ヨーロッパの山々の多くに登り、ヨーロッパ大陸の大部分を訪問した。彼の詩は"ジチェ(Życie)"(生命)、"ムウォドシチ(Młodość)"(青春)、"クルィティカ(Krytyka)"(批評)、"ストルミェイン(Strumień)" (英:Stream), "ヒメラ(Chimera)" (英:Chimera e.g. Idle Fancy)、"スウォヴォ・ポルスキェ(Słowo Polskie)" (ポーランドの言葉)のようなポーランドの文芸誌に頻繁に掲載された。そして彼は続く四年の間、短編小説、エッセイ、翻訳その他の仕事を継続して行なった。
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