経営者・政治家
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「平田佐次郎 (2代目)」の記事における「経営者・政治家」の解説
2代目平田佐次郎は初代平田佐次郎の息子で後継者である。平田佐次郎を襲名した。富田一色の寺子屋や一色学校で読み書きそろばんを学び、平田家の後継者となった。製網業を経営者だった初代佐次郎が操業した平田商店の2代目として、平田紡績社長をつとめた。平田製網社長としては、松原地区の東洋町商店街を中心とする富洲原商工会の顧問にも就任した。大正時代に長男の平田佐十郎に家督を譲り、その後平田家の当主だった平田佐十郎がスペイン風邪で若く死亡した後は、後継者を変更して三男の平田佐矩に家督を譲り隠居した。 富洲原村会議員となり、また富洲原村選出の三重郡会議員の渡邊久助および川村豊吉の後任も務めた。1915年(大正4年)9月30日に富洲原村選出の三重郡会議員(1期)と川越村選出の三重郡会議員に1911年(明治44年)に当選する。二代目平田佐次郎・伊藤平治郎(富洲原町の実業家で富洲原町議会議員などの政治家)・生川平三郎 (富洲原町の実業家で富洲原町議会議員や富田一色区長などの政治家)の3人は「三重郡富洲原町の3大政治家」であった。 創業者である初代平田佐次郎が平田製網(平田紡績)を創業した時代は麻糸を原料として、主に地元の富田地区・富洲原地区の人々の内職に頼っていた。しかし、品質が揃わず不完全であり、悪い品質で信用が低い商品であった。二代目佐次郎は欧米の製造技術を導入して、19世紀までの麻糸ではなくて新しく綿糸を使用して機械で大量生産する方法を大正時代初期に導入した。工場大量生産によって品質も向上し、「伊勢網」として日本全国に広がり、平田製網(平田紡績)は日本一の漁網生産を誇るようになった。 富田一色地区には平田家と平田漁網商店があった。松原地区の大字塩役付近で初代平田佐次郎が道路の補修をした塩役運河付近に東洋紡績を誘致して、二代目平田佐次郎は現在の四日市市富州原町の東洋町商店街・西元町商店街の商業化と松原地区宮町自治会を構成する東洋紡績富田工場社宅の建設や緑町の八千代座(芝居小屋)などの文化施設の開発に尽力する。天ヶ須賀には平田紡績の漁網工場が立地していた。
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