第3代東寺座主・第66代醍醐寺座主
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「文観」の記事における「第3代東寺座主・第66代醍醐寺座主」の解説
「後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)」も参照 文観の弟子が著した『瑜伽伝灯鈔』(正平20年/貞治4年(1365年))によれば、延元4年/暦応2年(1339年)1月25日、文観は醍醐寺座主に再任された。事実、この頃の著作に文観はしばしば「醍醐寺座主大僧正」と自署している。 しかし、醍醐寺の根本史料である『醍醐寺新要録』巻第14によれば、この頃は第65代の賢俊が依然として醍醐寺座主であり、文観が再任されたとは見えない。このような記録の齟齬が発生したことについて、仏教美術研究者の内田啓一は、官職が南朝と北朝でそれぞれ別に補任されたのと同様に、僧職においても南朝と北朝でそれぞれ独自に長が立てられたのではないか、と推測している。その論拠として、醍醐寺座主は半ば公的な僧職であり、その補任には口宣案や太政官牒など朝廷からの発給文書を必要とすることから、朝廷が南朝と北朝に分かれた場合には、それぞれの宣下によって異なる座主が当てられるのも自然であろうという。 6月10日には播磨国(兵庫県)の清水寺に滞在しており、仏典の書写を行っている(『金澤文庫文書』12巻)。この写本では、「醍醐寺座主殊音」と、律僧としての「殊音」の諱で署名しているのが例外的である。 その6日後の6月16日には大和国(奈良県)の吉野に帰還しており、後醍醐天皇に真言宗の至宝の一つである『天長印信』の書写を依頼した。国宝『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』である。これは本来は京都の醍醐寺にあるはずの宝物であるため、南朝の君主である後醍醐が直に北朝の領地である京都で入手したとは考えにくい。内田啓一によれば、文観は南朝の護持僧とはいえ、僧侶である以上はある程度両陣営に自由に行き来することが可能であり、醍醐寺から一時的に借り受けて後醍醐天皇にもとに運び、筆写を要望したのではないか、という。 なお、『後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)』奥書および『瑜伽伝灯鈔』によれば、文観は6月26日に「東寺座主」という仏職に補任されている。これはかつて後醍醐天皇の父の後宇多上皇が、東寺長者よりも上位にある真言宗最高位として新設したもので、初代東寺長者は禅助、第2代当時長者は道意、そして第3代が今回の文観となる。しかし、内田によれば、吉野に逼塞する文観が東寺に強い影響力があったとは考えにくく、名誉職的なものであったのではないかという。この前日に文観が後宇多の供養を行っていることを考えれば、後醍醐が父帝の仏教政策を継承していることを再確認し、真言密教の大寺院に対して任命権を掌握しているという姿勢を示すという意図があったのではないか、と内田は推測している。 この後3か月間、文観は執筆活動に専念して様々な仏教学書の述作を行っている。その意味では、文観にとって比較的平穏な日々だったようである。
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