第12軍の攻撃と第9軍の計画
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「ハルベの戦い」の記事における「第12軍の攻撃と第9軍の計画」の解説
第9軍を救出するために第12軍の攻撃が4月24日に第20軍団を中心に始まった。夜間にテオドール・ケルナーRAD(国家労働奉仕団)師団がトロイエンブリーツェン(英語版)付近で第5親衛機械化軍団に攻撃をかけた。翌25日、シャルンホスト師団がベーリッツ(英語版)周辺にて第4親衛戦車軍配下の第6親衛機械化軍団側面の手薄な部分に突出部を形成した。そしてその突出部を利用して、ウルリヒ・フォン・フッテン師団はシャルンホスト師団と共にベルリンへの通路を確保するためにポツダムまで進撃することを試み、その他の部隊は第9軍と接触するために東側へ攻撃を続けた。 ブッセは、第9軍は「イモムシの様に西進中」とヴェンクに伝えた。ブッセの計画ではSS第502重戦車大隊が先頭になって道を切り開き、後方からのソビエト赤軍の追撃を振り切るものであった。 4月25日から26日にかけての夜、ヒトラーは新たな命令を第9、12両軍に命令を発した。それは以下のようなものである。 第12軍は東へ進撃し、ベーリッツ-フェルヒ(ドイツ語版)間の第4親衛戦車軍を分断して第9軍と接触する。 第9軍はシュプレーヴァルト-フュルステンヴァルデ間で戦線を形成し、西へ進撃し、第12軍と接触する。 両軍の接触後、連携して北進し、ソビエト赤軍を撃破してベルリンへの通路を確保する。 第9軍は4月28日14時に最後の作戦会議を開いている。すでに第5軍団、第5SS山岳軍団によるベルリン接触は失われており、ハルベへの退却のみが可能であることはソビエト赤軍戦力情報が無い状態でも推測するのは簡単であった。会議前、第9軍の指揮統制はすでに乱れて、ヴァイクセル軍集団との連絡が取れなくなっており、一部の部隊が把握できている状態であった。そして作戦を遂行するための地図も所持していなかった。 Tony le Tissier著作の「Slaughter at Halbe」によると、「包囲された部隊の指揮統制を回復させなかったため、脱出を成功させることができなかったことはブッセの罪である。また、第9軍が包囲された直後に、包囲された部隊の指揮統制を失ってしまい、さらに司令部は包囲網脱出の際、前衛を勤める第502SS重戦車大隊の直後に配置した。そして、初期に包囲網突破を試みなかったのはブッセの罪である。」4月28日に計画された第9軍の包囲突破計画の前衛には第502SS重戦車大隊とクーアマルク装甲擲弾兵師団の残存戦力が二つに分けられて行動することになり、北側に第502SS重戦車大隊、第9軍司令部、第11SS装甲軍団司令部、そしてクーアマルク装甲擲弾兵師団司令部が当てられた。第21装甲師団の残存戦力は北西を防御、第34SS義勇擲弾兵師団が最後尾を務めることになった。
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