第九話 淀殿・その子
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「豊臣家の人々」の記事における「第九話 淀殿・その子」の解説
幼少期に二度も落城を体験し、その地獄絵を目に焼きつけながらも二度とも生き延びた信長の姪・茶々。しかし数奇な運命はそれで終わらず、不思議な巡り合わせの後に彼女は二度とも攻城軍の指揮をとった秀吉の側室となる。秀吉の寵愛ぶりはただ事ではなく淀川のほとりに新しく城を築いて与えるほどであった。以後「淀殿」と尊称されるようになった茶々はさらに世子の秀頼を産んだことで豊臣家中で確固たる地位を築くこととなり、折しも尾張出身者と近江出身者の対立が激しくなっていた最中、尾張者達が正室の北ノ政所を恃んだのに対し、近江者達は彼女の下に集まって閨閥が形成されるようになる。とはいえ、淀殿自身には近江者を集めて権勢を奮おうなどといった意志は欠片もなかった。彼女はそうした政治的抗争を理解する力を生来持っておらず、足下で日々繰り返される諍いが己と愛息の運命に関わる可能性など考えもしなかった。やがて秀吉が死んで両閥の軋轢は頂点に達して豊臣家は二分され、かねてより天下簒奪の機会を窺っていた家康が混乱に乗じて関ヶ原の戦いを誘引させ、政治的詐術で天下の実権を鮮やかに掠め取った。しかし淀殿の反応は鈍く、この戦の重大性を理解できず、戦後もしばらく豊臣家が一大名に転落したことすら気づかなかった。由来、淀殿は政治という怜悧な心気と犀利な心配りの必要な思考ができない。不幸にも運命が彼女をしてその思考の場に立たせているのみであり、その中でありあわせの情念のままひたすらに振舞ってきたに過ぎなかった。諸事において信長の姪という己の血の尊貴さと、妄愛する秀頼を中心に据えてしか物事を考ることができず、卓抜した智謀で乱世を渡ってきた家康にとっては相手ではなかった。豊臣家の滅亡を謀る家康は、時に宥め、時に恫喝し、掌で転がすようにして徐々にその力を削いでいった。やがて政情は大坂の陣へと雪崩れ込みついに最終決戦が始まるものの、大坂城内は相変わらず政治も軍事もわからぬ淀殿の言い様に振り回され、諸将よりも女官達が力を持ち指揮系統を壟断する有様であり、兵達の士気を大いにくじいた。果ては詐略ともいえぬ子供だましの手段で濠を埋め立てられ、かつて東洋一の大城塞と謳われた大坂城は無残にも裸城にされてしまう。追い詰められた末、淀殿は愛息共々に果てた。秀頼には辞世も何もない。戦の最中、豊臣兵達は再三その出馬を乞うたが、その度に淀殿の頑なな反対にあって結局実現しなかった。秀頼はその短い生涯のうちにその人柄や心壊を推し量る何ものをも遺さなかった。おそらくはその死も介添えが手を貸し、是非もなく死に至らしめたに違いない。 このようにして、この家は滅んだ。豊臣一族の栄華は、さながら秀吉という天才が産んだひとひらの幻影のように現れ、消えていった。
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