第三回航海とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 04:24 UTC 版)
「レゾリューション (帆船)」の記事における「第三回航海とその後」の解説
クックの第三回航海の目的は、北極海を抜けて太平洋と大西洋をつなぐ航路(北西航路)を探索することであった。クックは第二回航海から帰還後、名誉職であるグリニッジの海軍病院の院長に任命され、なかば引退状態にあったが、海軍大臣サンドウィッチ伯に自らを第三回航海の指揮官として推薦し認められた。しかし準備期間は短く、レゾリューションは前回の帰港後に、じゅうぶんな修理を受けなかったため、クックは出帆直後から雨漏りや浸水などの不調に悩まされ続けた。前回の僚船アドヴェンチャーは廃船になり、新たに、1776年1月5日にディスカバリーが海軍省によって購入された。ディスカバリーは重量298トン、定員70名であった。1776年7月12日、レゾリューションはプリマス港から出帆した。しかし、チャールズ・クラークが指揮を執ったディスカバリーは、兄の借金問題に巻き込まれたクラークが出帆直前に逮捕投獄される騒ぎのために、彼の出獄を待って約3週間遅れて出帆した。 クックらは北米太平洋側を北上し、アラスカ沿岸の測量を行いながらベーリング海峡に入ったものの氷に阻まれ北極海に入ることはできず、目的の航路を発見することはできなかった。しかし北洋への航海の途中にハワイ諸島を発見し、サンドウィッチ伯にちなんでサンドウィッチ諸島と命名している。 1779年2月14日のハワイにおけるクックの死後、レゾリューションの指揮はクラークが引き継いだが、同年8月に彼が結核で死亡したため、さらにジョン・ゴアに引き継がれた。帰路、日本列島沿いに南下し、1779年11月1日に富士山を目視している。1780年8月、イギリスに帰還したが、風に入港を阻まれ、いったん北上してオークニー諸島の港に入港した後、1780年9月30日、ヤーマース港に投錨し航海を終えた。 1780年には武装輸送艦に改装され、1781年3月にインドに出帆した。しかし、1782年6月9日、フランスのサフレン提督率いる艦隊のスフィンクスに拿捕された。ネガパタンの海戦に参加した後、木材、ビスケット、索具の積み込みと船員の捜索ためマニラに派遣された。レゾリューションは1782年7月22日に出帆したが、その後の行方は杳として知れない。 1783年6月5日の記録に、サフレン提督は、レゾリューションがスンダ海峡で最後に目撃されており、その後、浸水して沈没したかイギリスに拿捕されたのではないか、と記している。メルボルンアーガス紙の1879年2月25日の記事に、レゾリューションはリオデジャネイロでポルトガル籍の石炭倉庫船として最後の日々を過ごした、とあるが記事の真偽は確認されていない。ニュージーランド総督のゴールウェイ子爵は、レゾリューションの船首像と称するものを所蔵していたが、写真で確認すると、それはレゾリューションを描いた水彩画に見られるものとは一致していない。
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