第一映画社から東宝へ
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1934年(昭和9年)9月、日活を退社した永田雅一が第一映画社を設立し、伊藤、溝口健二、鈴木傳明らとともに同社に参加する。溝口監督の『マリアのお雪』『折鶴お千』に主演するが、後者の撮影中に同社に移籍した月田一郎の子を身籠り、翌1935年(昭和10年)3月1日に美和子(後の瑳峨三智子)を出産した。月田と結婚し、出産を機に女優を廃業しようと考えていたが、溝口監督の『浪華悲歌』『祇園の姉妹』に主演すると、その演技が高く評価され、生涯女優をやることを決意した。同年、第一映画が解散し、新興キネマ京都太秦撮影所に月田とともに移籍した。 1938年(昭和13年)6月、東宝映画に入社。同社第1作は川口松太郎原作・成瀬巳喜男監督の『鶴八鶴次郎』で、長谷川一夫と三味線弾きの夫婦に扮し、気は強く情にはもろい女芸人気質を好演した。それ以来、『蛇姫様』『昨日消えた男』『婦系図』などで長谷川とコンビを組んだ。そのほか『新篇丹下左膳』シリーズでは丹下左膳役の大河内の相手役を演じ、渡辺邦男監督の『新妻鏡』、成瀬監督の『上海の月』ではヒロインを演じた。スターとして揺るぎない地位を占めたが、夫の月田は役に恵まれず、夫婦の収入に差が生じるようになり、夫婦仲も次第に亀裂が入る。1940年(昭和15年)には別居し、娘の美和子は月田家が引き取った。1942年(昭和17年)に月田と離婚し、映画製作者の滝村和男と結婚するが、1年余りで離婚した。 1942年(昭和17年)、長谷川と共に新演伎座を結成。3月に東京宝塚劇場で菊田一夫作『ハワイの晩鐘』、川口作『お島千太郎』で旗揚げして以降、『伊那の勘太郎』『姿三四郎』などの舞台に立ち、太平洋戦争末期には軍の慰問にも回った。翌1943年(昭和18年)、花柳章太郎主演の『歌行燈』に出演するが、この共演を機に花柳と恋愛関係に陥った。
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