第一日新丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:36 UTC 版)
元々は三菱重工業長崎造船所で大阪商船の石油タンカーである3TL型戦時標準船大攬丸(だいらん丸)で、同船は建造中に長崎市への原子爆弾投下に遭い放置されていた。 戦後、大洋漁業は捕鯨を再開するにあたり、まず小笠原近海で捕鯨を行うこととしたが、所有していた捕鯨母船は全滅していた。そんな折、日本鋼管鶴見造船所で修理中の捕鯨船の隣にスリップウェイのついた軍艦がいる、という情報が持ち込まれた。大洋漁業はその「スリップウェイのついた軍艦」こと、第一号型輸送艦の第九号輸送艦、第十六号輸送艦、第十九号輸送艦を改造したものを借用し捕鯨母船として小笠原近海捕鯨を行ったが、狭く傾斜した甲板の上での鯨の解体作業が難しく、甲板は剥き出しの鉄板であるため太陽に熱せられ、その上で処理するため鯨肉が腐って異臭を放ち、倒れる作業員も出た他、波浪びよる船体の動揺が激しく、作業員が何回も転落することもあった。そんな中、日本政府は、大洋漁業の働きかけを受けて、鯨肉生産による食糧確保と鯨油輸出による外貨獲得を目的とする南極海での捕鯨再開を計画した。大洋漁業もこれに参加することになったが、借用していた輸送艦は連合国に賠償艦として引き渡されることになったことから使えず、南氷洋捕鯨用の捕鯨母船を必要とした。そこで目をつけたのが大攬丸であり、大洋漁業は同船を購入して捕鯨母船へ改造し第一日新丸と改名、1946年(昭和21年)10月15日に竣工。大攬丸時代にGHQの日本商船管理局(en:Shipping Control Authority for the Japanese Merchant Marine, SCAJAP)によりSCAJAP-N068の管理番号を与えられた。 1948年(昭和23年)8月、従来のボイラーと主機を撤去し、三井製ディーゼル機関を装備。 当時、オーストラリア政府から戦争賠償として本船と橋立丸(日本水産、10,021トン)を譲渡するよう要求があったが、アメリカ合衆国の反対により実現を免れている。 1951年(昭和26年)6月11日に石油タンカーへ改造すると同時にB.V.船級取得改造工事を受け、錦城丸と改名。 1954年(昭和29年)4月30日、川崎造船所で再度捕鯨母船へ改造。 1958年(昭和33年)10月、川崎製ディーゼル機関に換装。 1965年(昭和40年)3月、解体のため三菱商事に売却され、のちに大阪で解体された。
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