竹中組長殺害事件
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その一方で7月下旬、一和会二代目山広組若頭後藤栄治は、山広組舎弟長野修一とともに山口組に対する行動隊を結成、長野を行動隊長に据え9月中旬には山広組から19人の隊員を選抜し行動隊の結成式を行なった。 10月には一和会常任理事石川裕雄は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」に竹中の愛人が住んでいることをつかんだ。12月初旬に石川は同マンションの204号室を知人名義で借りて潜入、無線機を置いて一和会の「GSハイム江坂」の見張り要員と交信できる様にした。長野も12月21日に大阪市西区の「GSハイム西長堀」の302号室を借り、武器の隠し場所にした。 1985年1月12日、石川の報告を受けた後藤は、長野を伊勢自動車道の津インターチェンジに呼び、共に吹田市の「GSハイム第二江坂」に向かった。車中、後藤は、25口径ベレッタと25口径タイタン、32口径チーフスペシャルを長野に渡した。その後、後藤は長野と石川を引き合わせ、石川は長野に無線機の使い方を教えている。1月17日に長野は、三重県の山中で二代目山広組組員田辺豊記、山広組広盛会舎弟頭立花和夫、山広組組員長尾直美とともに、拳銃の試し撃ちを行なった。翌18日には石川から38口径リボルバーを1丁受け取り、23日にも後藤から32口径改造拳銃1丁を受け取った。 一和会側の作戦が着々と進行している中、1月9日には竹中に1980年3月上旬と中旬に竹中組で開かれた賭博の罪で懲役5か月の最高裁判所の確定判決。1月16日に竹中は、中山ら山口組最高幹部を連れて、伊丹空港から8時45分発日本航空911便に乗り沖縄県入り。那覇空港では翁長良宏会長を始め、旭琉会の15の一家の総長と幹部クラスの合計約60人から出迎えられ、沖縄観光がてら接待を受けた。沖縄から戻ると、26日昼には兵庫県神戸市灘区篠原本町で挙行された山口組本部上棟式に幹部全員を伴い出席。 竹中は26日21時15分過ぎに、中山と山口組南組・南力組長とともに「GSハイム第二江坂」に着くが、1階エレベーター前で田辺・長尾・立花に銃撃された。南は即死、竹中は銃弾3発を受けたものの、自力で愛車のメルセデス・ベンツに乗り込み、運転手の南組組員に大阪市南区の南組事務所に向かわせた。竹中らの乗った車は21時30分に事務所へ到着し、そこから(南組組員が自動車電話で手配した)救急車に乗せられて大阪警察病院に搬送された。病院に集まった組員らが輸血を申し出、竹中は9時間にも渡る手術を受けたものの、27日23時25分に死亡。中山は「GSハイム第二江坂」から救急車で病院に搬送されたものの、27日1時7分に死亡している。 竹中の仮通夜は、27日夜に兵庫県神戸市灘区の旧田岡邸で行なわれ、1月31日に竹中家としての密葬が行なわれた。
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