立憲政友会時代
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「斎藤長三 (政治家)」の記事における「立憲政友会時代」の解説
1900年(明治33年)立憲政友会が創立され、12月新潟支部設立と共に加入した。同年12月中央共催合資会社佐渡代理店となった。 1914年(大正3年)8月14日佐渡倶楽部が立憲政友会佐渡倶楽部に改組し、幹事となった。1915年(大正4年)11月病気で若杉病院に入院し、1916年(大正5年)東京の病院で胃癌と宣告された。 1917年(大正6年)4月20日第13回衆議院議員総選挙で農政革新会に山本悌二郎応援資金を供与したとして拘引されたが、立件されなかった。11月金沢女学校組合会議員。1920年(大正9年)5月有隣生命保険会社代理店となった。同年末頃から本間一松・野沢卯市・本間金五郎等と上京して国有佐渡鉄道敷設を請願したが、実現しなかった。 1923年(大正12年)5月佐渡新聞社理事嘱託となり、同月満州・朝鮮を視察旅行した。1924年(大正13年)12月29日東京写真時報社佐渡支局となった。 1930年(昭和5年)4月佐渡郡観光自動車株式会社社長、1931年(昭和6年)6月24日佐渡郡木炭同業組合長に選ばれた。 1935年(昭和10年)9月の第22回新潟県会議員選挙で二見村・沢根町・水津村・内海府村・外海府村・高千村・金泉村幹部に選挙費用を交付したとして、10月8日相川警察署に拘留され、11月26日二宮村長を辞職し、1937年(昭和12年)4月15日から6月17日まで新潟刑務所に収容された。 1936年(昭和11年)1月11日自宅が全焼し、斎藤活版印刷所を廃業した。 1939年(昭和14年)5月5日佐渡政友倶楽部が総裁制から会長制に代わり、初代会長に選ばれたが、1940年(昭和15年)8月9日本部解党に伴い解散した。同年10月『佐渡政党史』編纂を発意し、永木千代治著『新潟県政党史』を参考に『佐渡政党史稿』を著したが、旧立憲民政党員野沢卯市に政友会偏重と批判され、出版できないまま、1944年(昭和19年)12月29日死去し、河原田町談議所に葬られた。法名は政徳院北涯蝶叟居士。
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