福岡ダイエー時代
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1987年、瀬戸山は鈴木達郎専務と共にダイエー中内㓛社長に呼ばれ、南海ホークス買収の調査を命じられた。中内は南海ホークスを買収してダイエーのお膝元である神戸に本拠地を置き、グリーンスタジアム神戸を本拠地にすることを熱望していたが、鈴木と瀬戸山は、阪神人気の高い神戸では経営が難しいと躊躇していた。アジア太平洋博覧会(よかトピア)終了後の跡地利用が決まっていなかった福岡市からの誘致が持ち掛けられ、中内を説得して九州移転の了承を取り付けた。 1988年、ダイエーはプロ野球球団買収の方針を決め、神戸本店室の鵜木洋二室長らとともに水面下で準備を開始し、鵜木の主導で同時期に福岡市でプロ野球誘致を進めていた「市民球団誘致市民会議」と接触を行い、南海電気鉄道からのホークス球団買収、福岡市での球団経営が決定し、瀬戸山は球団総務課長として球団に出向する。 福岡におけるホークス球団の運営は南海時代より観客動員は増えたものの、スモールマーケットゆえの球団経営は予想以上の難しさがあり、他球団と比べて高額となる遠征費用や宣伝・広告費、球団の所有によるダイエー本体への波及効果などが早くも課題となり、弱体化したチームも相まって苦戦を強いられた。1993年オフ、坂井保之球団代表の退団に伴い球団代表に昇格し、編成面の統括職を行った。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}スモールマーケットである福岡に本拠を置くダイエーホークスの限界を認識し、現実的な球団運営に終始した。[要出典]また、ファンや選手とは距離を置き、特に選手との契約交渉においては冷徹であることでも知られ「瀬戸際代表」という渾名で恐れられていた。1996年より新設された「球団本部長」に就任した。 1997年のプロ野球脱税事件発覚では、ダイエーからも小久保裕紀を始め数人が関与していることが発覚し、瀬戸山は管理責任を取らされる形で「解雇」処分となり、一時的にダイエーフロントを後にした。1999年に根本陸夫球団社長がシーズン途中に死去したことから、球団代表としてフロントに復帰したが、リクルートから出向して球団社長に就任していた高塚猛と球団運営の方針を巡って対立したこともあり、2003年に退団、同時にダイエー本社も退社した。
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