神戸モロゾフ製菓株式会社設立に関与するも、袂を分かつ
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「フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ」の記事における「神戸モロゾフ製菓株式会社設立に関与するも、袂を分かつ」の解説
「ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ」も参照 1931年6月、事業拡大を目指し出資者を探していたフョードルは神戸商工会議所理事の福本義亮の紹介で、材木会社専務の葛野友槌の協力を得ることになった。葛野はフョードル親子が持っていた設備を買い取り、神戸モロゾフ製菓株式会社(後のモロゾフ株式会社)を設立。代表取締役は葛野が務め、フョードルは取締役に就任。子のヴァレンティンも菓子職人として同社に勤務することになった。会社の経営は順調で、設立2年目には3500円あまりの黒字を出した。 1933年頃から葛野友槌の関係が悪化。会社の経営方針を巡って対立するようになり、遂には法的紛争に発展した。1936年6月に調停が成立。調停の条件の中には1941年6月10日までの間、フョードル親子が「モロゾフ」と読みえる商号を使用して菓子販売をすることや神戸モロゾフ製菓と同様の事業をすることができないというものが含まれていた。なお調停成立前に福本義亮はモロゾフ親子を神戸商工会議所理事長室に呼び出し調停の取り下げに応じる旨の書類にサインするよう迫り、親子がこれを拒むと以下のように告げた。 あんた方、こんな帝国の日本に住めて有難いじゃないですか。ロシアにいたら殺されてる。いいですか、白系ロシア人なんだから、おとなしくしていたほうがいい。 — 川又1984、129頁。 神戸モロゾフ製菓株式会社発足から紛争が起こるまでの間に、葛野友槌の子・友太郎と福本義亮の娘が結婚し、葛野友槌と福本の間に縁戚関係が成立していた。 紛争後フョードルには洋菓子製造業を続ける意思はなく、紅茶の輸入販売業を手掛けるようになった。洋菓子製造業は子のヴァレンティンが引き継ぎ、太平洋戦争終戦後にコスモポリタン製菓を設立した。 60歳を超えた頃に商売をやめ、回想録を執筆するようになった。このフョードルはこの回想録を一般に公開する意思を持っていなかったが、後に西ドイツで出版された(英題は『A Legacy to My Heirs』)。この回想録は英語およびロシア語からなり、常に裏切られる危険のある他人よりも家族・親戚を重視すること、海外で教育を受けることの重要性、商取引における誠実さと謙虚さなどを説いている。 1971年に死去。墓は兵庫県神戸市北区の神戸市立外国人墓地にある。
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