石本家による代金回収と長崎商法本格参入
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「薩摩藩の長崎商法」の記事における「石本家による代金回収と長崎商法本格参入」の解説
薩摩藩は長崎で貿易業にも従事している豪商石本家を、長崎商法の販売代金の回収に利用しようともくろんだ。その一方で石本家側も薩摩藩領内での商機拡大を狙っていた。利害の一致を見た両者は連携を図ることになった。 五代勝之丞は文政6年(1823年)9月、鹿児島入りして約3か月間の間、薩摩藩側と協議を重ねた。薩摩藩側は五代勝之丞に対して、焦げ付いていた長崎商法の販売代金の回収と今後の円滑な代金回収システムの構築に対する協力、そして5000両の借金を依頼した。一方、五代勝之丞は永代一手販売権を獲得した人吉産の苧麻、茶の薩摩藩領内での販売、薩摩産の櫨蝋の買入等の商談を持ち込んだ。 文政6年(1823年)11月、五代勝之丞は薩摩藩の唐物方に2500両分に当たる銀150貫目の調達を了承する「御請書」を提出する。石本に借金をする形となった薩摩藩側は、焦げ付いていた長崎商法の販売代金の回収分から返済を行いたいと回答した。しかし当時の長崎は銀不足で回収は薩摩藩の手に負えず、どうしても石本家に頼らざるを得なかった。前述のように石本家は天草掛屋役として年400貫目を長崎会所に納入していた。そこでその納入分を焦げ付いていた長崎商法の販売代金に充当する計画を立てたのである。 確かに石本家が請け負っていた天草掛屋役として長崎会所に納入する400貫目を、薩摩藩の長崎商法の代金焦げ付き分の支払いに充てることは一見可能であるように見える。しかし400貫目はあくまで天草の農民たちが納める年貢、つまり租税であり、石本家が自由に利用できるわけではない。石本家は長崎会所側と粘り強い交渉を続けた結果、150貫目分の天草掛屋役納入金を代金焦げ付き分の支払いに充てさせることに成功する。その上で150貫目を石本家から借り入れたため、薩摩藩側は計300貫目を入手することが出来た。 薩摩藩が石本家に負う形となった150貫目の借金は、未納分の長崎商法の代金プラス長崎商法の収益で支払われることになった。石本家は資金繰りが厳しい長崎会所の事情を考慮し、これまで年2回であった唐物入札の回数を増やし、一度に扱われる金額を少なくして、返済金も少額づつこまめに返済するよう代金回収と支払方法の改善を提案した。薩摩藩側と長崎会所側との交渉によって、結局この点については薩摩藩側の要望もあって、年二回の入札後の支払いという点に変化はなかったものの、焦げ付き分の支払いに関しては三分割で支払う形で合意された。 そして琉球貿易による唐物の入札については、長崎奉行は文政7年(1824年)10月以降、長崎会所に入札翌日に落札額の2割に当たる銀の納入が無ければ商品を引き渡さないことにした。この結果、資本力に問題がある商人たちが入札から締め出される形となった。そして文政7年(1824年)11月には、長崎会所は石本家が薩摩藩長崎商法の売上金収受業務を引き受けることを認め、売上金の回収は薩摩藩が直接ではなく石本家が行うようになった。この結果、長崎商法の売上金回収は比較的スムーズに進むようになっていく。 一方、文政6年(1823年)の石本側が薩摩藩に行った商売上の要求は、薩摩商人の利益を著しく侵害する面も多く、要求が認められなかった点も多かったが、人吉産の苧麻、茶の他に木綿、大豆の薩摩藩領内販売の参入、長崎で薩摩藩が扱う黒砂糖の独占販売、そして櫨実、薩摩藩の蔵米販売等、薩摩藩に関わる様々な商取引に食い込んでいった。
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