石本家の付け届け攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:47 UTC 版)
「薩摩藩の長崎商法」の記事における「石本家の付け届け攻勢」の解説
このような薩摩藩による長崎商法の拡大に威力を発揮したのが、石本家による幕閣、長崎会所等に対する付け届け攻勢であった。石本家の五代勝之丞関係の文章「薩州産物一件年継御挨拶之見合」には、文政8年(1825年)の品目増加の嘆願に際して、幕府で強い権力を握っていた老中水野忠成に金200両等を贈ったのを筆頭に、勘定奉行村垣定行、長崎奉行土方勝政、同じく長崎奉行高橋重賢、そして長崎奉行所関連の役人や関係者に金品をばら撒いた。 文政12年(1829年)には、幕府から唐物商法の許可の5年延長が認められたが、その際にもやはり老中水野忠成を始め、勘定奉行村垣定行、長崎奉行の大草高好、本多正収、そしてやはり長崎奉行関係者や関係者に金品を贈っている。 天保5年(1834年)に、薩摩藩から長崎商法の20年間期限延長を申請された際に、長崎奉行所から意見を求められた長崎町年寄、長崎会所役人らは、長崎商法が会所貿易に悪影響を与えていることを認めながらも、条件付きで20年間延長を認める意見書をほぼ同内容で提出した。このことに関して松浦静山は甲子夜話の中で、町年寄の高島氏には500石など、長崎の地役人、長崎会所の役人に金品を贈っているという噂が広まっていることを記している。薩摩藩は石本家を通して文政8年(1825年)、文政12年(1829年)幕閣、長崎奉行所役人に付け届け攻勢を行ったが、長崎の地役人、長崎会所の役人にまで付け届け攻勢を広げていたと考えられる。
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