石本家の出自と長崎進出
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「薩摩藩の長崎商法」の記事における「石本家の出自と長崎進出」の解説
石本家はもともと長崎で商業を営んでいたというが、寛永年間ごろに天草に移住し、農業を営むようになった。なお商業で大きな成功を収めた後も、石本家は身分的には百姓のままであった。 石本家は二代石本治兵衛の時代である明和6年(1769年)ころには、既に天草の有力地主となっていた。その後四代勝之丞が当主の時代である寛政年間には、島原藩に対して大名貸を行うようになっていたと推定されている。そして五代勝之丞の時代に石本家は急速に発展する。文化15年(1818年)には長崎に出店し、文政5年(1822年)、唐紅毛貿易の入札株を得て長崎貿易に参加するようになった。そして翌文政6年(1823年)には、天領であった天草の年貢米の販売を請負い、年貢換算分に当たる銀400貫目を為替で長崎会所に納入する天草掛屋役に任じられた。 また五代勝之丞は、人吉藩そして薩摩藩との結びつきを強めていく。人吉藩とは藩の特産品である苧麻、茶の販売等で関係を深め、文政6年(1823年)9月には人吉藩の苧麻と茶の永代一手販売権を獲得していた。一方薩摩藩とは人吉藩産の苧麻、茶の薩摩藩領内への売り込みを通して薩摩商人との取引関係が生じ、その中で文政4年(1821年)に薩摩藩側との接触が始まったと推測されている。文政5年(1822年)から長崎貿易に参画することになる石本家にとって、琉球貿易を通じて中国産品の安定的な供給が期待できる薩摩藩からの働きかけは、新たなビジネスチャンスへの期待を持たせるものであった。
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