矢頭良一の自働算盤
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日本の明治初期における計算器具等の発明については、特許類の他に内国勧業博覧会の出品記録について調査した報告によれば、いくつかの興味深いものも見つかっているが、詳細は伝わっていない。 はっきりと機械式計算機の形態を持ち、かつ実際に作られたものとしては、矢頭良一(やず りょういち、1878-1908)による「自働算盤」(パテント・ヤズ・アリスモメトール:Patent Yazu Arithmometerとも)が、金属製で実用的な最初のものと考えられている。回転する円板を利用する点は同じだが、細かい構造などはオドネルなどのものとは異なっており、独自に考案したものとみられている。1901年に森鷗外を訪ね計算機の模型を見せ協力を要請したことが鴎外の「小倉日記」に書き残されたことから、後の再発見につながった。矢頭は計算機の販売で得た資金を元に動力航空機を研究したが、エンジンの試作の後に早逝した。 自働算盤の完成は1902年で同年特許を申請、1903年に日本国特許6010号を得ている。歯車式だが、他に見られる出入り歯車や階段状歯車ではなく、歯を左右に移動する独特の方式である。内部の計算方式は十進だが、入力はそろばんあるいは二五進法風に、ある桁における置数が2回の操作でできるよう工夫されている。乗除算の方式は、タイガー計算器などの加減算の回数をカウントアップする方式とは異なり、先に置いた乗数ないし除数をカウントダウンする方式である。さらに乗除算では桁送りや計算終了を自動に行う機構もあるとされ、改良型の特許(日本国特許18119号、後述)には乗算の場合の働きが説明されているが、判然としない。内山昭による現存機の確認の際には修理により動作を確認したとあるが、2010年の和田による報告では同機が改良型の特許のものと同型であること、乗除算のための機構があることなどが確認されたが、動作は確認できなかったという。 当時の価格で250円、約200台が作られ, 森の協力もあり陸軍省、内務省、農事試験場等に販売された。矢頭は資金を得て試作のエンジンの成功をみたが飛行機の夢はならず5年後に病で没した。日本国特許18119号は父親の名義になっている。 その後機械式計算器としてはタイガー計算器が代表的存在になり、また小倉日記が紛失したことなどもあって、矢頭の自働算盤は忘れられていった(たとえば城憲三らによる『計算機械』には言及がない)。小倉日記が1950年代に発見されたことで、自働算盤が再発見され、現存機も確認された。現存機は後に北九州市立文学館に寄贈され、現在[いつ?]は同館蔵である。2008年7月には機械遺産の30番として認定された。 矢頭が特許を得た1903年は、くしくもライト兄弟のライトフライヤー号の初飛行成功の年であった。
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