真島製紙所・大阪製紙株式会社
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「真島襄一郎」の記事における「真島製紙所・大阪製紙株式会社」の解説
富士製紙を退職した真島は1894年(明治27年)4月尼崎市定光寺に72インチ円網抄紙機2台と円型木釜1基を備えた工場の建設を始め、同年末には真島製紙所と社名を定め操業を開始する。真島は資金不足もあり製紙機械は国産品で行こうと考えた。機械の大部分は大阪安治川の岡本鐵工所と大阪鐵工所に発注した。しかし、直径4尺大のドライヤー(紙を乾かすために加熱できる金属円筒)だけは日本国内で作ることが出来るのは大阪の砲兵工廠だけで砲兵工廠に依頼した。民間が持っていない設備をもつ砲兵工廠は余裕があれば民間の依頼も受けていたのである。しかし、砲兵工廠でも十分に質の高い品が作れず2級品ばかり出来上がってしまってきたところに日清戦争が勃発し、砲兵工廠は戦時下では民間の仕事をしている余裕はないとそれ以上の製造を断わってきた。真島は仕方なく出来上がっていた2級品を引きとり間に合わせている。 なんとか事業が軌道に乗った1895年(明治28年)10月、真島製紙所は資本金を10万円に増やし合資会社真島製紙所に組織改編し、手漉きのねずみ色封筒が流行ったのをみて類似品を製造したり半紙なども抄いてみたり簀目入り紙を作ってみるなど多彩な商品を工夫して好評を博している。 1898年(明治31年)には更なる事業発展のため、大阪の富豪である野田吉兵衛から出資を受け、真島の会社は資本金46万円の大阪製紙株式会社となった。真島は64インチ円網抄紙機2台を増設した。この時期の真島は意気揚々として関東の王子製紙や静岡の富士製紙に並ぶ大会社にしていこうと考えており、1899年(明治32年)には同業他社(前田製紙)への技術支援も行うまでになっていた。三井物産の協力で中国向け輸出も好調で、さらに1904年(明治37年)の日露戦争での特需で空前の好景気に多大な利益を上げることが出来た。ところが日露戦争終戦後は中国向け輸出が振るわなくなり88インチ長網抄紙機を増設したり、旧式の円網抄紙機2基を改造して75インチ長網抄紙機に変えるなど努力はしたものの、1907年(明治40年)頃からの不景気は重くのしかかる。真島は減資まで行ってみたが経営は立ち行かなくなり、ついに1910年(明治43年)6月には大阪製紙株式会社は解散し、工場は出資者の野田の手に渡り、真島は製紙業界を引退する。 真島は不遇な老後を暮し、1913年(大正2年)12月大阪緒方病院で逝去する。 墓は梅松院(大阪市天王寺区)にある。梅松院は代々大阪で眼科医をしていた真嶋一族の菩提寺である。
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