真島製紙所・大阪製紙株式会社とは? わかりやすく解説

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真島製紙所・大阪製紙株式会社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 07:56 UTC 版)

真島襄一郎」の記事における「真島製紙所・大阪製紙株式会社」の解説

富士製紙退職した真島1894年明治27年4月尼崎市定光寺72インチ円網抄紙機2台と円型木釜1基を備えた工場建設始め同年末には真島製紙所社名定め操業開始する真島資金不足もあり製紙機械国産品行こう考えた機械大部分大阪安治川岡本鐵工所大阪鐵工所発注した。しかし、直径4尺大のドライヤー(紙を乾かすために加熱できる金属円筒)だけは日本国内作ることが出来るのは大阪砲兵工廠だけで砲兵工廠依頼した民間持っていない設備をもつ砲兵工廠余裕があれば民間依頼受けていたのである。しかし、砲兵工廠でも十分に質の高い品が作れ2級品ばかり出来上がってしまってきたところに日清戦争勃発し砲兵工廠戦時下では民間仕事をしている余裕はないとそれ以上製造を断わってきた。真島仕方なく出来上がっていた2級品を引きとり間に合わせている。 なんとか事業軌道に乗った1895年明治28年10月真島製紙所資本金10万円に増やし合資会社真島製紙所組織改編し、手漉きのねずみ封筒流行ったのをみて類似品製造した半紙なども抄いてみたり簀目入り紙を作ってみるなど多彩な商品工夫して好評博している。 1898年明治31年)には更なる事業発展のため、大阪富豪である野田吉兵衛から出資を受け、真島会社資本金46万円大阪製紙株会社となった真島64インチ円網抄紙機2台を増設した。この時期真島意気揚々として関東王子製紙静岡富士製紙に並ぶ大会社していこう考えており、1899年明治32年)には同業他社前田製紙)への技術支援も行うまでになっていた。三井物産協力中国向け輸出好調で、さらに1904年明治37年)の日露戦争での特需空前好景気多大な利益上げることが出来た。ところが日露戦争終戦後中国向け輸出が振るわなくなり88インチ長網抄紙機増設したり、旧式の円網抄紙機2基を改造して75インチ長網抄紙機変えるなど努力はしたものの、1907年明治40年)頃からの不景気重くのしかかる真島減資まで行ってみたが経営は立ち行かなくなり、ついに1910年明治43年6月には大阪製紙株会社解散し工場出資者野田の手渡り真島製紙業界を引退する真島不遇な老後暮し1913年大正2年12月大阪緒方病院逝去する。 墓は院(大阪市天王寺区)にある。院は代々大阪眼科医をしていた真嶋一族菩提寺である。

※この「真島製紙所・大阪製紙株式会社」の解説は、「真島襄一郎」の解説の一部です。
「真島製紙所・大阪製紙株式会社」を含む「真島襄一郎」の記事については、「真島襄一郎」の概要を参照ください。

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