皇族身位令での明文化から廃止まで
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「皇族軍人」の記事における「皇族身位令での明文化から廃止まで」の解説
1910年(明治43年)3月に、皇族身位令において次のように明文化された。 ※引用註:()内は現代かな遣い・新字体に改め、句読点を補ったもの 明治四十三年三月三日 皇室令第二號 皇族身位令 第十七條 皇太子皇太孫ハ滿十歳ニ達シタル後陸軍及海軍ノ武官ニ任ス (皇太子・皇太孫は、満十歳に達したる後、陸軍及び海軍の武官に任ず) 親王王ハ滿十八歳ニ達シタル後特別ノ事由アル場合ヲ除クノ外陸軍又ハ海軍ノ武官ニ任ス (親王・王は、満十八歳に達したる後、特別の事由ある場合を除くのほか、陸軍又は海軍の武官に任ず) 第十九條 前數條ニ定メタルモノ及特旨ニ依ルモノノ外勲章記章及文武官ニ關スル法令ハ皇族ニモ之ヲ適用ス (前数条に定めたるもの及び特旨によるもののほか、勲章・記章及び文武官に関する法令は、皇族にもこれを適用す) 朝鮮王族の末裔である王公族男子にも皇族同様に軍人となる義務が課せられ、1926年(大正15年)12月に公布された王公家軌範第59条で明文化され、結果、3名が陸軍軍人となった。 先述の通り、この規定よりも若年の10代前半で幼年学校に入学した皇族が多数名いる。一方、継宮明仁親王(第125代天皇、現:上皇)は、立太子していなかったが昭和天皇の嫡男として皇太子とみなされていたにも関わらず、父天皇の意向で武官に任官していない。 皇族軍人の制度は、第二次世界大戦での日本の降伏と陸海軍の解体を受けて終焉した。1945年(昭和20年)11月30日に皇族身位令から上掲の第17条などが削除されたことでその法的義務は消滅し、次いで皇族身位令及び王公家軌範自体が、日本国憲法施行前日の1947年(昭和22年)5月2日付で他の皇室令ともに廃止された。 加えて、連合国軍占領下にて元皇族軍人の多くは公職追放の対象となり、さらに極東国際軍事裁判では梨本宮守正王がA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監(のち不起訴釈放)されたほか、小松輝久侯爵(北白川宮家:輝久王)が皇室関係者の中では唯一BC級戦犯として実刑判決を下され、服役した。
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