登位と治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/22 14:36 UTC 版)
685年ないし686年にキャドワラは先代チェントウィネが退位した後を受けて王になった。ベーダはキャドワラの治世は2年で、688年には治世が終わると書いているが、彼の治世が3年足らずであるならば、685年には既に王位に就いていた可能性がある。西サクソン王族系譜目録では彼の統治は3年とし、異なる見方では2年ともしている。 ベーダによると、キャドワラの治世の前にはウェセックスは副王のもとで統治がされていたが、キャドワラが征服、これを退け王となったと言う。ベーダははっきりとは明言していないが、この記述は現在ではキャドワラ本人が副王の統治時代を終息させたと取られている。ベーダは、チェンワルホが没した後の10年間は西サクソンが副王たちによって支配された時代としている。現時点ではチェンワルホは673年頃に没したと考えられており、キャドワラの年表と若干食い違っている。一説としてキャドワラの先代であるチェントウィネは共同統治者から始まったが、キャドワラが単独統治者になった時に彼も独立した王となったという意見がある。別の説ではその副王たちはチェントウィネとキャドワラと争った別の西サクソン王族の系譜を指しているのではとも言う。「副王」という表現はベーダに西サクソンの情報を伝えたウィンチェスター司教ダニエルの贔屓目の表現方法とする説もある。また全ての副王が排除されたとは限らない。双方とも一部の歴史家には疑われているが、サマセット州とウィルトシャー州の西部を支配した王ベアルドレドは2つの土地の下賜を、一方は681年、もう一方は688年に受けている。さらに状況を困惑させるのは、別の土地の寄進でウェセックス王とされるイネの父親がイネの王位継承後もその土地を支配していたという明瞭な下賜の記録がある。 王になるやキャドワラはすぐに南サクソンへ再び進軍、この時彼を追放したベルスムを殺害、「この地は服従という最悪の事態となった」と伝わる。キャドワラはまたワイト島へも侵攻、この地はいまだ独立した異郷の王国であったが、キャドワラはこの地に住むものを皆殺しにし、自らの民をこの地に移住させたと言う。この地の王アルワルドは後継者として二人の幼い兄弟を指名して死んだが、島を離れていたが、ストーンハムで発見されキャドワラの命で殺されたと言う。キャドワラは、しかしながら司祭に説得され処刑の前に二人に洗礼を施しキリスト教徒として死ぬ事を許したと言う。またベーダによれば、キャドワラはこの時傷を負ったと言い、司祭が洗礼を施す許可を乞いに訪れた時に傷は癒えかけていた頃だったと言う。 688年の勅書には、キャドワラは境界のためにファーナムの土地を下賜した。すなわちキャドワラがサリー州を支配下に置いていた事になる。彼はまたケントにも686年に侵攻、ロチェスター北東部、メッドウェイ川とテムス川の間にあるフーという場所に修道院を建立したとも言う。彼はケント王エアドリッチに代わる王として弟のムルを擁立する。しかしケント人の反乱の際に弟ムルは配下の者12人と「焼かれた」とアングロサクソン年代記は伝えている。キャドワラはケントへの戦役を復活させる事で反応、この地を荒廃させ混乱させた。彼はこの侵攻でケント王国を直接統治した可能性もある。
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